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第30章 生活のために必死で働く | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第30章です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

私とミシン。

 結婚して60年が経ちました。

 子どもたちが学校に通っていた時期、私は生活のために必死で働き、どうやってお金を捻出するか、悩んでばかりいました。

 夫の階級は士官長で、子どもたちの教育に最もお金がかかる頃、彼の給与では一家7人の生活費しかまかなうことができませんでした。

 我が家の子どもたちは皆勉強が良くできて、学期末になると表彰状を持ち帰って私たち両親に見せてくれました。子どもが学校で認められていることは、私と夫の力になりました。私は子どもに「あなたたちがしっかり勉強をしたら、私のミシンの出番です。公立の学校に合格したら、お母さんはなんとかしてあなたたちを卒業させますからね」と伝えていました。

 私は、学業をとても重要視しています。
 戦争末期だったため、私は“もう少しで小学校を卒業できる”というタイミングで、山への避難を余儀なくされました。家族全員がマラリアにかかっても医者が見つからず、姉の夫がトラックを借り、家族全員を山から自分の家まで連れて行き、医者の治療を受けさせてくれたこともありました。そんな混乱の時代に勉強を続けることができなかったことが、私の人生で最も残念で、苦痛なことです。だからこそ、私は学びを失う辛さを子どもに経験させたくありません。

 私はいつも、どんな困難に遭っても、子どもたちには最も良い教育を受けさせるのだと自分自身に言い聞かせています。子どもたちには勉強する能力があるのですから、私はお金を稼ぐことだけ考えれば良いのです。

 私と夫は二人で仕事を分担し、協力し合いました。
 夫の勤務時間は毎日6時間と長くありません。朝番、昼番、夜番、深夜番のシフト制です。深夜番が終われば1日休みがもらえるうえ、深夜番の日の昼間は何もしなくて良いので、家のことをする時間的な余裕がありました。

 私たちは話し合って、夫が買い出しや炊飯を、私が子どもの世話と洗濯、水汲みを担当しました。

 近所の奥様方の中で、夫は“典型的な良い夫”といった存在で、私はいつも「買い物をして、ご飯を作ってくれる夫がどこにいると思う? あなたは子どもと遊んでいるだけで良いなんて!」とからかわれ、その度に傷付いていました。

 実際のところ私は何をするにも行動が遅く、子どもの世話と買い出し・料理の両方をこなすことができませんでした。逆に夫は子どもの世話をすると体を休める時間がなくなってしまうため、料理を担当してくれました。

 私は軍人さんたちの服のお直しを始めましたが、収入は安定しませんでした。さらに下の子どもたちが小学校に上がり、長男が高校を受験する頃には、支出がどんどん増え、対策を考えないと暮らして行けなくなりました。

 ちょうどそんなタイミングで「老梅カトリック教会」が幼稚園を設立することになりました。地域の公立校である老梅小学校の附属幼稚園が新入生の入学を準備したところ、教室が足りないことが分かり、幼稚園児の受け入れを教会の神父さんに相談したのです。そうした背景から当初は臨時の託児所として立ち上げられ、半日預かりのおやつ付きで1人毎月15元でした。後に少しずつ改良され、数年後には幼稚園の申請が通り、全日預かりをするようになりました。

 長男を高校に行かせるために、私は教会の幼稚園スタッフとして働くことにしました。月の給与は500元です。次男が小学一年生になりましたが、一年生の授業は半日だけで、ある週は午前中、次の週は午後の半日だけといった具合でした。教会幼稚園の仕事は朝から午前中までで、11時半頃に家に帰ると、午後12時半からの小学校の授業に間に合うよう、急いで昼食の支度をしなければなりません。

 私は次男に「ママがご飯の炊き方を教えるね。電鍋1カップのお米を3回研いで、内鍋に1カップ、外鍋に1目盛り分の水を入れたら、あとは電源を入れ、スイッチを押すだけだよ。おかずはママが帰ってきたら急いで作るからね。お父さん、お母さんは仕事、お兄ちゃん姉ちゃんは学校に行っているから、あなたは家でお利口さんにママの帰りを待っていてね。分かったかな?」とお願いすると、まだ6歳だった次男は快く協力してくれました。

 父親が朝番の時、次男は家で一人になってしまうこともありましたが、彼は私が想像していたよりよくやってくれました。私も働きに出て家計を支えるため、次男に我慢してもらうしかありませんでした。

 ある日、とても仲の良いご近所の馮さんの妻さんから誘いを受けました。
「眷村の公共トイレを掃除する人がいないの。私たち二人でやってみない? 一人が水を出している間にもう一人がトイレを洗えば効率が良いから、1日に30分あれば足りるはず」

 私は他の人に見られたら気まずいのではないかと言いましたが、彼女は旦那さんが屏東の訓練に2年間派遣され、生活費に困っていました。
「お昼にみんなが昼寝している時間を狙えば大丈夫だよ。手早く30分で終えれば、誰にも見つからずにできる」と言われ、確かに一ヶ月に200元稼げるなら悪くないと思い、一緒にやってみることにしました。

 お昼の眷村はとても静かで、私たち二人は仕事を始めたものの、ある時、指導長に見つかってしまいました。

 指導長は一人がブラシを、一人が水を持ってトイレのほうに向かうのを見て、後を付けてきたのでした。馮さんの妻さんはとても緊張し、慌てていましたが、私は本当のことを話せば分かってもらえるはずだと、ありのままを話しました。指導長は説明を聞いた後、笑いながら「それは大変だったね」と言ってくれました。指導長に見つかった後も月末まで掃除を続けさせてもらい、その後は眷村の外でこの仕事を引き受けてくれる人を探し、村長に引き継ぎました。

 民国57年、私たちの眷村にやっと水道ができました。
 どの家にも新しく蛇口が設置され、ひねると水が出てくるようになりました。これからは水汲みに行かなくて良くなるので、皆は大喜びです。

 水道は老梅眷村の裏に2つある井戸から引かれており、1つの井戸は富貴角のレーダーステーションに、もう一つは私たちが暮らす銘德⼀村の住人たちに水を提供しました。

 井戸にはモーターが装備され、担当者が夜9時にモーターの電源を切り、朝6時に電源を入れました。雨の日でも毎日時間通りにこなさなければならず、一ヶ月の工賃は200元です。当初は谷村長の妻さんが任命されました。

 彼女は肝の座った方でした。夜9時になると海辺の住人たちは早々に家に入り、辺りは人影もなくなりますが、彼女は一人でモーターの電源を切りに海辺まで通っていました。

 しばらくすると、谷村長の妻さんは大変だからやめたいと思い始めたそうで、私に仕事を引き継がないかと尋ねました。彼女は私たちが仕事を必要としていることを知っていたのです。

 夫に相談すると、彼は「僕が夜勤の時も、夜の9時に一人で海岸へ行けるかい?」と聞きました。私は「一緒に行ってくれないか、長女に相談してみます。もし子どもたちが一緒に行ってくれるなら、私たちはこの仕事を受けましょう。一ヶ月に200元は大きいよ」と答えました。

 子どもたちはとても親孝行で、長女も次女も付き添いを引き受けてくれました。少しの収入のために子どもたちには無理を言ってしまいましたが、普段は夫が担当してくれていて、私たちが行くのは4日に1度、彼が夜勤の時だけでしたから、実際はそこまで大変ではありません。

 ただ、モーター係の仕事を始めて数ヶ月した頃、夫が竹子山のレーダーステーションの仕事を命じられ、家を空けることが多くなりました。夫は一度行くと4日間帰らず、その後家に帰って2日間休み、翌日からまた竹子山に戻るといった具合でした。

 私は、朝の5時過ぎであれば一人で海岸へ行くことができましたが、夜になると怖くて、子どもに付き添ってもらわないと出発することができません。

 二人の娘たちに付き添ってもらえれば十分なものの、次男と三男を家に置いておくのも心配なので、結局子どもたち4人を連れて行くことになりました。夏はまだ良いのですが、雨の日や寒波が来た時などはさんざんな状況でした。それでも私は頑なに仕事を続けました。

 200元のために家族全員を総動員するなんて、私は本当に怖がりな母親です。実はこれには理由があります。

 私がまだ幼かった頃、鹿港で祖父と一緒に一年以上暮らしていた時、いとこきょうだいと自分のきょうだい、合わせて10数人の年が近い子どもたちがいました。

 夜になると、祖父は子どもたちを集めてさまざまな怖い話をし始めたのです。暗い灯りの下、祖父がまざまざと話すので、私たちはまるでお化けが辺りにいるように興奮し、怯えたものです。

 お話が終わって寝室へ向かう時には皆怖がって一人では歩けなくなり、手を繋いで祖父におやすみの挨拶をすると走って寝室に戻り、ドアに鍵をかけ、縮こまって眠りました。私と姉は抱き合って眠りました。私は最も怖がりだったものの、怖い話を聞くのも好きだったので、筋金入りの弱虫になってしまいました。こんなにたくさんの子どもたちを産んだのに、夜寝る前に公共トイレに行くのにも、夫に頼んで付き添ってもらっていたくらいです。

 夫が竹子山のレーダーステーションで働き始めて一年ほどすると、家の近くに別の部隊ができたおかげで、夫は元の現場に戻されました。

 こうして私がモーターの電源操作へ行くのは数日に一度に減り、子どもたちは眠りから起こされ海辺に行く日々から解放されました。

 夫が戻って間もなくすると、技術の進歩のおかげでモーターは自動で電源が切り替えができるようになり、私たちは毎週モーターに油を差したり、ネジの輪ゴムを交換するだけで、仕事はかなり楽になりました。

 このモーターの仕事は、民国70年に初孫に付き添うことなって辞めるまでの間、ずっと続けました。

 民国47年から70年までの20数年間は私たち夫婦が最も大変な時期で、毎日が時間との戦いでした。モーターの管理、公衆トイレの掃除などは時間がある時の副業に過ぎず、私の本業は軍人さんたちの服の修繕と、教会の幼稚園で働くことでした。仕事が終わって家事が終わると服のお直しを始めるのですが、私が働くことのできる時間は限られているので、夫にも手伝ってもらいました。

 夫は仕事に行く以外の家にいる時間を利用して、服を解体したり、ズボンを縫うのを手伝ってくれました。そうした暮らしが、彼の裁縫技術を飛躍的に上達させました。

 民国50年代になると、台湾の経済は成長し、電気製品の人気が高まりました。政府も消費者がローンを組んで買い物をすることを奨励していたので、銘德⼀村の住民の中にも、冷蔵庫やテレビ、洗濯機を買う人が次々に現れました。

 我が家は眷村で一番最後に冷蔵庫を買いました。ようやく頭金を貯めることができたおかげで、やっと買うことができました。冷蔵庫が納品された夜、私と夫は冷蔵庫のモーター音が聞こえてくるのが嬉しくて、一晩中眠れませんでした。これで働きに出ている長女がアイスクリームを買って帰ってきても保存することができます。その後、テレビと洗濯機を買ったのも、我が家が眷村で最後でした。

 幼稚園での仕事は14年間続けて、月給500元から700元、900元、1,400元となり、民国70年には3,600元になりました。その年の6月には辞表を出し、夫と孫がいる台北に引っ越し、おじいちゃんおばあちゃんとしての暮らしが始まりました。

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