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第4章 幸せを追い求める勇気 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第四章です。

 夫の本昌と知り合ったのは、私の叔父の店でのことでした。

彼から「友達になりませんか」と書いたメモを渡された時、叔父は大いに賛成してくれました。彼は誠実そうに見えましたし、背が高くとてもハンサムだったので、お年寄りたちが好むタイプだったのです。

ただ、姉や父、そのほかたくさんの親戚たちは、彼が外省人であるとか、兵隊であるといった理由だけで反対しました。民国40年代、二二八事件(※)が起こってまだそんなに時間が経っていませんでしたから、台湾人は皆、自分の娘が外省人に嫁ぐなど、とても受け入れられることではなかったのです。

※訳注:二二八事件
1895年から1945年までの半世紀、台湾は日本の統治下に置かれていましたが、第二次世界大戦での敗戦により、日本は台湾の領有権と請求権を放棄しました。

その後、蒋介石率いる〈中国国民党(以降、国民党と記載)〉政府が台湾の新たな統治者となりました。当初、国民党政府は「光復」(日本による統治が終わったことを示す言葉)という表現を多用し、台湾人を懐柔しましたが、相次ぐ外省人による横暴が住民の反感を買い、人々の不満は鬱積していきました。
そんな中、外省人の官吏が闇タバコを販売する本省人女性を取り締まる際に暴行したことを機に抗議運動が起き、各都市へと広がったのですが、国民党政府は武力を用いてこれを鎮圧。多くの死傷者が出ました。これが「二二八事件」です。
「二二八事件」は1947年2月27日の夕方に闇タバコを販売する本省人女性
を取り締まりをきっかけに騒動になり、発砲によって一人の民衆が死亡。そこからラジオで台湾全土に広がっていき、同年5月16日にいったん戒厳令が解かれたことで終了とされています。

ただ、「二二八事件」以降、外省人と本省人の対立が強まり、国民党政府はその後世界で最も長い期間とされる1949〜87年の間、再び戒厳令を敷き、「白色テロ」が横行する言論統制の時代へと繋がっていくのでした。

私の祖母です。

 それまでの保守的な社会において、女子が簡単に異性と付き合うことはできませんでした。他人から見下されてしまうからです。叔父一人に賛成してもらっても意味がありませんでした。そこで私は祖母に意見を求めに行きましたが、祖母は「見たこともない人について意見することなどできないよ」と言います。どうしたものでしょう?

 ある日の午後、私は祖母を鹿港の中正路にある祖父の義理の妹の家へと連れ出しました。毎日夕飯を終えた彼が、防衛学校のクラスメイトたち三人とその家のドアの前を通り過ぎることを知っていたからです。私は彼らが門の前を通るタイミングを見計らってドアの後ろに隠れ、二人の老人たちに四人の中の何番目にいるのが彼であることを告げ、彼らがその男性をどう思うかと尋ねました。二人の老人たちが彼を見てとても満足してくれたことで、私たちの交際は一つのハードルを突破することができました。

 次は叔母です。叔母が「会ったこともない人だから話などできない」と言うので、彼に会ってくれるよう頼むと、清明節に中正路の福興派出所の隣にある彼女の実家で春捲を食べようと提案してくれました。何を質問されても真面目に答える彼の誠実で正直な人柄を、叔母は絶賛してくれました。実はその時、叔父の店で会計をしている吳さんという女性が通訳を手伝ってくれました。双方の言葉が通じないので、意思疎通は大変でした。

 それでも、父と姉はとても怒っていました。既婚者である姉は親族の老人たちに向かって「この子はまだ分別がないのです。あなたたちまで一緒になって騒ぎ立てるなんてどういうことですか」と言い、私を台中にある彼女の家に連れて行き、帰してくれませんでした。姉の家に連れて行かれる時、私は姉の住所をこっそり吳さんに伝えておきました。当時、吳さんも夫の友人に想いを寄せていました。

 姉の家に着くと、姉は私に重さ一銭(訳注:約3.75g相当)の指輪をくれる代わりに、外省人に嫁ぐことは忘れるよう言いました。
「中国の男たちは結婚が早いと聞いたことがある。もし中国に彼の奥さんがいたら、あなた一体どうするつもり? 悪いことは言わないから本省人と結婚しなさい。結婚の時には金のネックレスと指輪、イヤリングにブレスレットのフルセットをプレゼントするから。今はここに留まって、鹿港へは帰らない方がいい。時間が経てば、彼も諦めるよ」

 姉の言葉に抗うこともできず、私はそのまま姉の家に留まりました。
ある日届いた吳さんからの手紙には「あなたが鹿港を離れてから、彼は毎日心ここに在らずといった感じで元気がありません。あなたが恋しいのです。どうにか戻って来れない? あなたの叔母さんもそう言っています」と書かれていました。しかしこの手紙を受け取った姉は怒り狂い、私を叱りました。
「なぜ家の住所を教えたの? もし彼が家に来て問題を起こしたりしたら、私は夫の家族たちにどう責任を取ったらいいの?」

 叱られた私は、夜中に隠れて泣き、吳さんの手紙に書いてあったことをあれこれ考え続けて眠れませんでした。
 ずっと考えていたのは、姉を説得して帰るべきかどうかという点です。姉は彼がこの家に現れて困った状況になることをとても恐れていました。そこで姉に呉さんや叔父の意見を聞くために鹿港に戻りたいと相談し、最後にはどうにか受け入れてもらうことができました。
 
 こうして私は台中を離れ、鹿港に戻ることになったのです。鹿港に着いた私は、まず叔父の家と吳さんのところに立ち寄り話をしてから、家に戻りました。

 私が帰ったのを見た父は、「彼とのことはどうするつもりだ? 私は認めないよ」と言いました。
 当時、彼と友達になるために、私は衣服を作る仕事をしていましたが、その望みも絶えてしまった今、私は一日中家でふさぎ込んでいました。

そんな私の姿を見て堪えられなくなったのでしょう。ある日、父が私に言いました。
「吳さんのところへ行って、彼に家に来るよう伝えてもらってきなさい。ちゃんと話をしよう」

 その言葉を聞いて、私はとても嬉しくなりました。

 当時の父は鹿港から一時間以上離れた頂番婆という村で働いていました。父はその派出所で警察官をしていたのです。

 当時は今のように電話でやり取りできる訳ではなく、何かがあると歩いて用事を伝えに行っていました。私は父から言われたことを翌日の朝早く出発して叔父の店へ行き、吳さんに相談しました。吳さんはそこから彼の部隊へ彼や彼のクラスメイトたちを訪ねて相談し、私の家で父と会う時間を約束してきてくれました。事をうまく進めるため、彼らは部隊に仕える本省人の士官・黃奇淼さんに付き添いをお願いしていました。

 いよいよ話し合い当日。
 父と彼らは一時間ほど穏やかに話していましたが、本題に入ると、父はすぐ彼にこう言いました。
「君が二万元の持参金を用意できるなら、この結婚を承諾しよう」
彼は父の条件を聞き、愕然としながら答えました。
「私の収入は福利金を含めても一ヶ月に120元しかありません。そのような大金を用意することができないのですが、どうかお許しいただけないでしょうか?」
 当時、一銭の金貨はわずか42元、牛肉600グラムは4元、一テーブルの宴会費用が一般的にわずか90元か 100元、どんなに良くても120元でした。二万元! 本当に驚くべき金額です。

 彼らと父が話している間、女性はその場を外さなければなりませんでしたから、父が彼にそんなとんでもない条件を出したと知ったのは、彼らが帰った後のことでした。父は彼が自分から諦める事を望んでいたのであり、もともと結婚を承諾するつもりなんてなかったのです。付き添ってくれた黃奇淼さんが父にどれだけ良い話をしても父の決意は固く、とうとうお開きになったのでした。

 部隊に戻った彼らは、皆に囲まれどうだったかと問われましたが、彼はもうその時ショックでうまく答えることができず、代わりに黃さんが父が示した条件について話してくれたそうです。

 皆がずいぶん時間をかけて相談した結果、ついに支隊長に助けを求めることになりました。最初はどうしたら良いのか分からなかった支隊長も、私の父が鹿港管轄の警察であることを思い出し、鹿港支局長の故郷は支隊長と同じ福州であったことから、彼を頼ってもきっと大丈夫だろうと思ったようです。

 このようにして、熱心な支隊長は仕事が終わった後に支局長を食事に誘いました。
 話を聞き終わると、支局長は「この結婚が成功すれば、今の台湾が抱える出身地問題(訳注:本省人と外省人の対立)に少しは手助けになるだろう。よろしい。私が蔡さん(訳注:作者、蔡雅寶ツァイ・ヤーバオの父)を説得しに行こう」と言ってくれました。

 支局長は私の父に会うなり、一言目から問いかけました。
「あなたは外省人についてどう思われますか? 外省人のことがお嫌いですか?」
こう聞かれて、父はどうして本当のことが言えましょう。支局長は畳み掛けます。
「あなたの娘さんがレーダー部隊の若い士官長と良い関係でありながら、あなたが娘さんを彼に嫁がせないと聞きました。それは、外省人が好きではないからですか? 実際のところ、外省人にも本省人にも良い人間、悪い人間はいます。私はその若い青年と話をしましたが、とても誠実で正直な人間でしたよ。あなたは、彼を受け入れるべきなのではないですか?」

 支局長がたくさんの良い話をしてくれたおかげで、父はついに文句をつけられなくなり、この結婚を受け入れるしかありませんでした。

 父が家に帰ってきた時にはもう午後になっていました。父は私を呼ぶと、こう言いました。
「結婚については承諾した。ここからはお前自身の運命次第だ。どんなに困難なことがあっても、泣き言を言うんじゃないよ。自分で責任を取らなければならない。私が心配してくれなかったという恨み言は無しだよ」

言い終わると父は、とても悲しそうにその場を立ち去りました。父の表情を見た私は、心の中で「お父さん、心配かけてごめんなさい」と言いました。

 その後は、婚約や結婚に関する話し合いが始まります。
夫と彼のクラスメイト、そして黃奇淼さんは叔父を訪ねて詳細を話し合いました。叔父が私の父に「何が必要なんだ、リストを作ってくれたら全部やってあげるよ」と聞くと、父は無表情なまま「いいのさ、結婚用の伝統菓子(喜餅)を150箱、友人と親戚らに送るだけだよ」と答えました。
叔父がそのことを黃奇淼さんに告げ、黃さんはそれを支隊長に報告しました。部隊の人々、そして大勢の家族たちはそれを聞くととても喜び、父に向かってお祝いの言葉を伝えました。婚約の儀式はとても順調に進みましたが、一つだけ、六番目の叔父から横やりが入りました。

 六番目の叔父は父にこう言いました。
「お兄さん、娘を外省人に嫁がせるのかい。この結婚、私はせいぜい持って一年だと思うね。もし三年続いたら、私の耳を切り落として占いの材料にしてもらってもいいよ」
父が笑いながら「分かった。その言葉、娘に伝えておくよ」と言うと、六番目の叔父はそれ以上何も言わなかったそうです。

 婚約が終わると、次は結婚の日取りを決める番です。婚約日は旧暦で七月を迎える三週間前でしたが、民間の習わしで七月はお祝い事に良くないとされているため、叔父は旧暦八月以降で良い日取りを選ぼうと提案しました。

ですが彼やクラスメイト、支隊長たちは私の父が反対し始めないかと心配し、半日悩んだ末に、旧暦の6月29日(7月1日の前日)・西暦8月14日の空軍記念日に結婚することを決めました。

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