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第35章 働きながら大学で学ぶ次女 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第35章です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

 3人目の子ども、次女の春芳は活発で、近所のご婦人たちにとって彼女は親しみやすい存在でした。

 次女が中学に進学する際も、神父さまのアドバイスで光仁中学に入学しました。光仁中学は聖母聖心会が設立した学校で、会員の子どもは、経済的に苦しいといった条件を満たせば学費は全額免除され、寮の寄宿費、食費を負担するだけで良かったからです。
 私たち老梅カトリック教会は聖母聖心会に所属していました。会は伝道以外に教育も行っており、光仁は幼稚園から高校まで設立され、進学率も非常に高い学校でした。私と夫は相談の結果、神父さまの親切に甘えて、次女を光仁中学に行かせることにしたのでした。

 長女が看護学校の3年生に在籍し、あと一年で卒業という頃、次女は高校3年生に進級し、次男は中学を卒業しようとしていました。

 次男は長男と同じ成功高校の夜間部に進学しましたが、長男は大学受験で国立大学に合格しましたので、私たち両親は次男もきっと兄と同じく、良い大学に行くことができると信じていました。

 三男も、私たちの家を離れてカトリック系の徐匯中学に入学しました。

 こんなに多くの子どもたちが同時に学校に通うようになったので、家計は火の車でした。長女が看護学校を卒業して家計を助けてくれるようになると、やっと少し楽になりました。

 次女が高校を卒業しようという時、私は「もし大学に行きたいのなら、夜間大学という方法しかありません。そこなら、仕事をしながら学業を成し遂げられます。あなたの分の学費を捻出してあげられなくて、お母さんは本当に申し訳なく思っています」と伝えました。

 従順な次女は、夜間大学に合格するとすぐに仕事を探し、従兄弟の中勝が勤めている貿易会社で一年ほど働きました。その頃、ちょうど老梅カトリック幼稚園に先生の欠員が出て、神父さまは春芳の活発な性格や歌やダンスが得意で何度も表彰されていたことや、子どもが好きなことを知ってくれていたので、春芳を教諭として迎えてくれました。老梅幼稚園は私の職場でもありましたので、私たち母子は同僚になりました。

 春芳は大学2年生の2学期に台北の貿易会社の仕事を辞めて、老梅の海辺で幼稚園教諭になりました。

 幼稚園は老梅から40キロ以上離れていたので、彼女は淡水に小さな部屋を借り、夜の授業が終わった後、夜中の11時過ぎにバスに乗って淡水まで戻り、翌朝6時半のバスで老梅幼稚園に出勤していました。

 田舎の保護者たちはとても早い時間に子どもたちを園まで送ってくるので、幼稚園教諭は7時前には園に着く必要がありました。

 午後4時半に幼稚園が終わると、彼女は急いでバスに乗って台北へ向かい、大学で夜間講義を受けました。とても大変な日々でした。

 ある時の次女は、台北で夜間講義を終えてバスに乗り、淡水の家に戻る途中で寝てしまったことがありました。バスの終点に着いて、運転手さんが「お嬢さん、これが最終のバスですよ。どうやって帰るつもりですか?」と彼女を起こしてくれましたが、春芳はどうしたら良いか分からず愕然としました。指南バスの終点は、今の漁人碼頭付近で、周囲には誰もいません。
 民国60年代、辺りはまだ開発されていない荒地で、深夜は特に人っ子一人いませんでした。

 この出来事は、次女が後から話してくれたことです。聞いた時にはとても驚いて、何度も淡水の家までどうやって帰ったかと聞きました。

 彼女は当時はとても怖くて泣きそうだったけれど、頑張って顔を上げ、歩いて帰ったのだそうです。

 しばらく歩いていると、後ろからバイクの音がして、振り返ると若い男性が乗っていたそうです。思わず手を振ると、彼は停まってくれました。次女は事情を話し、送ってもらえないかと頼むと、兵役中らしきその若者はとても良い人で、快く淡水まで送り届けてくれたのでした。母親の私は聞きながらヒヤヒヤしましたが、夜中にそのような良い人に出会えたことは非常に幸運だと思いました。社会にはまだ良い人がいるのですね。

 次女が幼稚園で2年ほど働いた頃、夫が旧友の吳さんから送られてきた速達を受け取りました。

「私たちが働いている会社に欠員が出たので、春芳に来てもらいたいと思っています。大学を卒業したらそのまま正社員になることができますし、結婚しても60歳の定年までずっと働き続けられます。とても良い機会なので、ぜひとも受けてほしいと願っています。すぐに決断して、お返事をください」とのことでした。

 呉さんがずっと我が家の子どもたちに関心を寄せてくださったことが手紙から伝わってきて、私たち一家はとても感激しました。

 呉さんに返事の手紙を送りながら、幼稚園の責任者に離職を願い出て、次女は大好きだった幼稚園での仕事を辞め、台北で働き始めました。彼女が大学4年生の頃のことです。

 呉さんの親切のおかげで、娘は安定した仕事に就くことができました。

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