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第3章 山での暮らしと兄の訃報 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第三章です。

 埔里の北山坑へ越すと、叔父は私たち一家七人が住むことのできる木造の家を手配してくれました。

 家には大きなベッドが一つあり、祖母と私たち子ども四人がぎゅうぎゅうになって寝ることになりました。父と三番目の継母はダブルベッドで寝ましたが、家族全員が同じ部屋で就寝します。非常事態ですから、皆で我慢するしかありません。

写真左から:私、六女を抱く長兄、三女、父、メイドさん、七女を抱く二番目の継母、弟。

 家計を切り詰めるために、叔父は私と三女に自分の三人の子どもたちから薪拾いや魚捕り、キクラゲやきのこ狩りを教えてもらうよう勧めました。

当時、山の中の学校はすでに半休校状態でしたし、私の転校証明書も引っ越しでどこかへ行ってしまったので、学校へは行かなくなりました。

生活のため、私と三女は毎日早朝から晩までぎっちり仕事を詰め込まれました。まず用意するのは、薪を拾うための鉄線で作られた籠とそれを担ぐための棒。魚を捕まえるための竹籠は一人10個必要でした。そして、きのこやキクラゲを取る時に使う、大きめの小麦粉袋です。

 道具がすべて揃ったら、仕事を始めます。
朝食を食べてから、私と三女は三人のいとこたちと一緒に向かいの山に登ります。途中広い川を渡り、だいたい50分くらいで山頂にたどり着きます。

 そこにはクスノキが生い茂っており、小さな樟脳しょうのう工場がありました(訳注:クスノキからは樟脳が採れるため、日本統治時代の台湾では樟脳産業が大きく発展した)。

工場ではクスノキを伐採して油を搾ります。彼らにとって小枝は必要ないものなので、私たちはそれを拾って鉄線で作られた籠に入れ、家に持ち帰ることができました。私たち五人の子どもたちはいつも誰が一番先に家に着くかを競い合い、私はいつも三女の前を歩いていました。彼女は自分が妹より体力がないことを情けないと思っていました。

 山頂から家に帰ると、すでに午後一時を過ぎている頃です。
昼食を食べてひと休みしたら、次は米ぬかを炒めます。鍋の中で米ぬかが香ばしくなったらお粥と一緒に混ぜ、湯圓タンユエン(訳註:お団子)を作り、竹籠に入れます。

夕方、それを持って川へ行きます。底が浅い場所を選び、小石を取り除いてから、竹籠の口が上流を向くように置きます。籠の周囲を小石で軽く押さえ、流されないようにします。皆が一人10個の竹籠を設置するので、夕方の川はとても賑やかになります。

竹籠を設置し終わったら家に帰り、翌朝また竹籠を回収しに戻ります。このようにして小魚や小海老を捕り、家族七人の二日間の食糧にしていました。

 竹籠を回収した後、やっと朝食を食べることができます。
食後に少し休んだら、水を運びます。運び終わったら山へ登って薪やきのこ類を取りに行きます。

もし大雨が降った翌日が晴れていたら、私たちはいとこたちと一緒に吊り橋を渡って向かいの山の中でキクラゲやきのこ狩りをします。腐った大木の上には薄紫色のきのこが生えていて、キクラゲはまた違う木の上に生えています。私と三女は小麦粉袋の半分以上がいっぱいになるくらいきのこを収穫し、皆で帰宅したものでした。

家に帰ってきのこを出し、大きな板の上で天日干しにします。次に大雨が降るまではきのこ狩りに行くことができないので、少しずつ食べます。

 私たちがとても忙しく過ごしていた山での八ヶ月の間に、とても悲しい出来事がありました。

私の兄は二人目の継母が亡くなって間もなく、台中の家を離れ、日本の志願軍として南洋へ行き、軍医をしていました。

悲しいことに、兄が乗った船は高雄の港を出航してすぐ、連合軍の爆撃機に襲撃され、沈んでしまったというのです。

ただ、当初は人から伝え聞いただけで、まだ軍からの通知も来ておらず、父は兄が無事に帰ってくることを諦めていませんでした。

ですが、不幸な出来事は本当に起きてしまっていました。
私たちが山へ越してきて間もなく、兄の戦死の知らせを受け取りました。

 父は非常にショックを受け、三日三晩飲まず食わずで、涙も枯れ果てた状態でした。

父は当初、兄を日本の志願軍に参加させたことを悔やんでいました。

運命とは本当に人をもてあそぶもので、船が沈んだ時、兄と一緒にいた台中の仲間の中に、台中出身の人もいました。

とても幸運な人で、船が爆破されて人々が爆死したり海に投げ出される中、彼は海に投げ出されました。彼は助けの船が来るまで漂流物につかまり続け、船の所属国に連れて行ってもらい、傷が癒えた後、自分の土地に送り返してもらったのです。彼が台中の家に帰った時、日本はすでに降伏を宣言していました。

 偶然にも、その彼の父親と私の父は懇意にしていました。
この幸運な男性は、台湾に戻った後にすぐ私の父のもとを訪ね、船が爆撃された瞬間、兄がなぜ逃げることができなかったのかを教えてくれました。

父はそれを聞いた後、声が出なくなるまで号泣していました。

兄は私たちきょうだいにとって憧れの存在であり、兄を失うことは家族の柱を失うということでした。今になってもこのことを思い出すと、誰もが悲しい気持ちになります。

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