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第19章 長女の誕生 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第19章です。
※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

 鹿港から澎湖に戻ってまもなく、私は自分が妊娠していることに気付きました。息子がもう3歳になっていて、私は娘が欲しいと強く思っていたところだったので、嬉しい気持ちでいっぱいになりました。

 妊娠中、私は皆の服を作りながら、時折息子を連れて馬公に映画を観に出かけました。『聖女媽祖傳』という映画を観たことを覚えています。まだ6歳だった女優の張小燕が小さい頃の媽祖さまを演じていて、他にも李麗華などの古きスターたちが出演していました。
 私は幼い頃から映画が好きで、新しい映画が出ると、どんなに忙しくてもなんとか観に行っていました。当時、軍人とその家族は映画を半額で観ることができたので、とても助かりました。

 妊娠してから、私は澎湖で三番目の家に引っ越しました。

 事の経緯は悲しい出来事がきっかけでした。台南の眷村で暮らしていた頃にご近所だった童さんの奥さんの長女が急性中耳炎になり、一週間の高熱が続いた後に亡くなってしまったのです。当時の奥さんは二人目を出産したばかりで、月子(訳注:台湾式の産後ケア)の最中でした。長女を3歳で亡くした衝撃は大きく、2年経っても奥さんの精神状態は混乱し、どうにかなってしまいそうでした。彼女の夫の童さんは非常に心配し、辛い思い出が残る台南を離れるため、澎湖への異動願いを出しました。

 そうして澎湖の東衛里で家を探している童さんが、一緒に大きめの家に住まないかと私たち夫婦を誘ってくれました。2家族で暮らすことで、奥さんが早く元の健康で明るい自分を取り戻してくれるよう望んでのことでした。私たち夫婦はそれを承諾し、引っ越すことにしたのです。

 新しい大家の莊さん夫婦はとても良い方で、ご夫婦が6人のお子さんと暮らす家の寝室を二つ、私たちと童さん一家に貸してくれました。莊さん一家8人は部屋にぎゅうぎゅう詰めになって暮らし始めました。

 私たち2家族にはキッチンがなかったので、リビングの両脇(寝室のドア付近)にそれぞれコンロを置かせてもらいました。こうして、リビング中央には莊家のご先祖様の位牌が置かれ、片方には私が洋服を縫うミシンが、そして両家の寝室のドアの前にそれぞれ2つの小さなコンロがキッチンとして設置されました。

 私たち両家と大家さん一家、そして大家さんたちの弟一家、20人近くが一緒に暮らし、とても賑やかでした。皆が同じ水甕を使い、使い終わりそうなのを見つけた人が急いで水汲みに行きます。

 4つの家族が一つの小さな三合院で仲良く暮らし、童さんの奥さんの精神状態も少しずつ回復し、再び笑顔が見られるようになりました。

 映画館、ミシン、そして皆の笑い声の中で、一日一日が過ぎて行きました。


 長男を出産した頃は何の経験もありませんでしたが、今回、二人目を出産するに当たっては必要なものを早くから準備して、安心して生まれてくるのを待つことができました。

 民国45年2月14日(春節の二日目)の午後から陣痛が始まり、子どもがもう生まれると思った私は、リビングで同僚と麻雀をしていた夫に小声で生まれそうだと伝え、助産師を呼ぶよう頼みました。

 一人目の経験があったので、もう怖くはありませんでした。助産師の励ましで私は痛みに耐え、夜中の0時過ぎに赤ちゃんは元気いっぱいに生まれてきてくれました。やはり、女の子でした。

 助産師の春梅姉さんは「願いが叶ったね、おめでとう!」と言い、赤ちゃんを沐浴させながら「この時間帯に生まれてきた子は、大きくなってから大成するのよ」と教えてくれました。もし娘に良い運命が訪れるなら、私のこれまでの苦労も報われるというものです。赤ちゃんはとても可愛く、夫も娘が産まれて喜んでいました。

 しかし、赤ちゃんが満一ヶ月を迎えてから、どうしたものか、空が暗くなると泣き始め、そのまま明け方まで泣き続けるようになりました。

 昼間に眠って夜に泣くのですが、その鳴き声がとても大きいので、眠るまで抱っこしてゆらゆら揺らし続けました。やっと寝たと思ってベッドに優しく置くと、すぐに目を覚まし、さらに大きな声で泣くのです。私と夫は交代で娘を抱っこしましたが、抱っこしても泣く時もあり、鳴き声は隣近所まで丸聞こえでした。私と夫は疲労困憊で、特に夫は夜勤もあり、睡眠不足が仕事に影響してしまうので、事態は切迫していました。

 大家の奥さんと、同僚の奥さんたちがアドバイスをくれました。
 地元の人たちのように「床母(台湾語)」をお参りするとか、外省人のように父親の服と履いた靴を逆さにして子どもの体に乗せる(子どもが寝ている間に行わないと効果がない)などといったものです。すべての方法を試しましたが、娘はやはり同じように泣くばかりで、三ヶ月経っても問題を解決することができずにいました。

 ある日、劉成全さんの奥さん(中国北部出身)から「電柱や壁に呪文を書いたお札を貼り、通りすがる人たちに念じてもらうことで、より効果が高まります。試してみてはいかがですか?」とアドバイスをもらい、「天の神さま、地の神さま、我が家には泣き虫がいます。通りすがりのお方、一晩朝までぐっすり眠れるよう、どうか3回唱えてください」という呪文をお札に書き、昼間に貼るのは申し訳ないということで、夜まで待ってから夫があちこちに貼りに行きました。

 呪文のお札を貼って間もなく、娘は満四ヶ月になりました。呪文の効果なのか、はたまた四ヶ月で自然とそうなったのか、彼女は泣かなくなりました。友人たちがさまざまな方法を教えてくれたおかげで、私たちはなんとかこの苦しい日々を乗り越えることができました。

 娘はとても可愛らしいのですが、人を見分けるので、母親ではない人が抱っこしようとすると大声で泣き始めました。最終的には童さんの奥さんだけが彼女を抱っこすることができましたが、他の人は触ることさえままなりませんでした。

写真上:当時、軍隊とその家族はレクリエーションを開き、白沙鄉通樑村に600年のガジュマルの大木を観に行き、大木の下で家族写真を撮りました。 (下)長女が八ヶ月の頃、写真館で家族写真を撮りました。

訳者余談

上の写真にある、離島・澎湖、白沙鄉通樑村の保安宮は、樹齢数百年と言われるガジュマルの大木たちが根を張り巡らせていることで知られています。

澎湖に行くならぜひ訪れてみてくださいね。

周囲には甘酸っぱいサボテン(仙人掌)アイスを提供する店が何軒もあることで知られています。台湾外交部のサイトに詳しい情報がありました。

白沙鄉通樑村の保安宮から大きな橋「跨海大橋(海を跨ぐ大橋という意味)」を渡ると、澎湖の「西嶼」という南西部に到達することができます。

澎湖最西部の灯台などもあるほか、石や地形好きな私が訪れたのは「池東大菓葉玄武岩」という、柱状の玄武岩が見られるスポット。

澎湖の国家風景区管理処のサイトによると、日本統治時代に偶然見つかったものだそうです。
穏やかで美しい海が見渡せました〜
すぐ近くの「玉春海産行」に立ち寄り、台湾本当ではあまり流通していないサクサクピーナッツ菓子「花生酥」を購入。
「花生酥」のほかに「花生糖」もあります。濃厚で香ばしいピーナッツの味が、台湾茶やコーヒー紅茶にぴったり合います。

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