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第12章 離ればなれの日々 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第12章です。 

 私たち親子と雪さんは、山の上に戻りました。雪さんには重いものを運んでもらって、本当に感謝しています。

 翌日まだ赤ちゃんが寝ている間、私は夫に私たち母子の近況を伝える手紙を書きました。手紙を受け取った夫はとても喜んでくれて、「子どもに会いたい。今はどれくらい大きくなったんだろうね」と返事をくれました。

 私は、夫に赤ちゃんの写真を撮って送ってあげてはどうだろうかと思いつきました。赤ちゃんはもう生後三ヶ月になっており、この可愛く育っている姿を見せてあげたいと考えたのです。

 私は山のふもとの大肚街にある写真館で写真を撮り、夫に送ることにしました。

 翌日、しっかり準備をして赤ちゃんを背負い、出発です。
嬉しくて鼻歌を歌いながら、両側にアカシアの木々が立ち並ぶ牛車路を通って山を下り、写真を撮りました。往復で二時間以上歩いたので、家に帰った時には疲れ果てていました。

 一週間後、山を下りる友人がいたので、彼に写真館に立ち寄り、私たちの写真を受け取ってもらうようお願いしました。このようにして手に入れた写真に手紙を添えて、村の小さな雑貨店から送りました。子どもの写真以外に、自分の写真も一枚添えました。これが私が夫に送った写真です。

夫に送った写真です

写真で息子が身に付けている服や靴は、私が一針一針手縫いして作ったものです。帽子は以前市場で買いました。私自身は急遽撮影してもらうことになったので、たいした身支度もしておらず、ただ髪を結んだ程度でした。

 夫がそばにいない今、私たち母子を最も助けてくれたのは、村の奥の方に住んでいる文蘭姉さんと、その夫の王さんでした。

 王さんはいつも家に来て子どもを抱っこして外に連れ出してくれたので、私はその間に家事をすることができました。分からないことがあれば彼らに教えてもらっていましたが、どのように子どもの服や布靴を作れば良いかといったようなことも、文蘭お姉さんはとても細やかに教えてくれました。

 後に、文蘭姉さんは私に子どもと自分たちの家に引っ越してくるよう言ってくれました。その方が彼女たちが私たち親子の面倒を見るのにも便利だし、私が村の入り口から奥まで行ったり来たりすることで、時間を無駄にしなくていいからとのことでした。本当にありがたく、私は本当に彼らのところに引っ越して暮らし始めました。

 夫がいなくなって半年が経ちましたが、彼がこの期間中に帰ってきたのは、たったの2回だけでした。

 一度目は写真を送ってからほどなくしてのことです。
ある日の夜9時過ぎ、夫は急に帰って来ました。私は「こんなに遅くに、どうしたの?」ととても驚きました。当時は交通が不便だったので、屏東から始発のバスで林邊まで行き、そこからローカル鉄道の快速で台中の大肚駅まで北上するのに12時間もかかったので、すっかり夜になってしまったのだそうです。さらにそこから山を登らなければならないので、家に着くのがこんなに遅くなったということでした。

 夫が履いていたズボンは、膝に大きな穴が二つも空いていました。あまりにもボロボロで、かわいそうになりました。彼はこんなに仕事が長引くと思っておらず、ズボンを2本しか持って行かなかったので、着替えが足りなかったのでした。

 彼のチームはレーダー車の中で働いていたので、車体を登ったり降りたりするとズボンが擦り切れやすかったのです。

夫とレーダー車

 夫は子どもと一緒に遊んでくれました。子どもは嬉しそうに笑い、少しも人見知りしなかったので、夫はとても喜びました。しかしながら一緒に過ごせる時間は短く、四日目の朝早くには、再び仕事に戻らなければなりませんでした。

 子どもを抱きながら玄関で夫を見送り、さようならを言って別れました。振り返ると、涙が止まりませんでした。

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