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第8章 妊娠を知らない私 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第八章です。

 大家さんの家での楽しい暮らしも八ヶ月が過ぎました。

 ある日、部隊から、家族向けの部屋に空きが出たので引っ越すようにという知らせが入りました。しかも、家賃が必要ないのです。こうして私たちは三つ目の家に引っ越すことになりました。

 その部屋は中正路の媽祖廟の近くにあり、鹿港で有名な「施家」の四きょうだいが持つ家にありました。家は病院で、「四方病院」と呼ばれていました。

なぜ「四方病院」と呼ばれているかというと、施家四きょうだいの名前が「江東」、「江南」、「江西」、「江北」という方角順で付けられていたからです。彼らは全員医者で、うち三人は日本に留学して医学博士を取得していました。

 光復(訳注:日本統治時代が終わり、中華民国となって)以降、施家のきょうだいたちは故郷を離れて台北で活躍するようになりました(訳注:台北大同区にも四方病院の跡地がある)。

 そこで軍隊のレーダー部隊が民国38年に鹿港に来て以来、この四方病院に住むようになったのです。

 そこは3階建ての大きな家で、病院と住居が4棟連なった建物でした。ですから、すべての分隊が入ることができ、レーダー機器なども3階の屋上に設置されていました。

 民国39年に軍隊のレーダー部隊が海辺の土地を見つけ、比較的大きな規模のレーダー第四部隊が設立されてから、この四方病院はその家族たちを住まわせるようになりました。

 奥さんたちは全員外省人で、本省人は私だけでした。
 彼女たちとの会話は似ているようでほとんど理解できず、時に受け答えを間違って笑われたこともありました。私は「意思疎通がうまくいかないままではいけない、しっかり外省人のたくさんの言語を覚えなければ」と、自分に言い聞かせました。

 新しい環境での生活が始まり、毎日することもなく、よく王さんと一緒に紹興戲(訳注:中国の伝統的な芝居)を観て過ごしました。夫は海辺で働いており、とても遠くて通勤は大変でした。夫は仕事が終りに時間があれば、同僚たちとカードゲームをして過ごしていました。

 四方病院に移って二ヶ月ほどすると、私は身体に違和感を感じるようになりました。よく居眠りをするし、食べ物を食べると吐き気がします。
 症状がどんどんひどくなるので、どうしたら良いか分からず、思い切って王さんに相談しました。私は彼女を姉のように慕っており、なんでも相談していました。

 王さんは話を聞くと、大笑いしながら「妊娠したんだね! 旦那さんは知っているの?」と言いました。私が首を横に振ると、「早く伝えなきゃ! もうすぐパパになるのにまだ知らないなんて」と言いました。

 以来、私は自分と将来生まれてくる赤ちゃんを大切にして過ごしました。

 幼い頃に母を亡くし、妊娠や出産、子育てといったような結婚後のすべてのことは自分でゆっくり学ぶしかありませんでした。他の女性たちが自分の母親に世話をされているのを見るたび、いつもとてもうらやましかったです。


訳注:本編とは関係がありませんが、日本の読者がイメージしやすいよう、当時の写真などを下記に引用してみます。ご参考いただければ幸いです。

鹿港や台北など各地に開業した「四方醫院」の様子

先別煩了,我們繼續來談談四方醫院吧。 施江南醫師(1902~1947)其先祖施世衛約於清康熙年間來臺,落腳彰化一帶後遷居鹿港海埔。祖父施善述為秀才;父親施瑞呈因經商販售食鹽而逐漸發達。 施瑞呈有4個兒子,分別為施江東、施江西、施江南、施江...

Posted by 台灣歷史資源經理學會 on Friday, February 10, 2023

台北の「四方醫院」跡地は現在、リノベーションされています。


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