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第39章 大陸の故郷、親戚を訪ねる旅 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第39章です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

 二人の孫がゆっくりと成長した後、私と夫は四川の実家に親戚を訪ねる計画を立てました。

 両岸(訳注:台湾と中国)が通信を制限されていた民国72年(西暦1983年)、夫は長男・光華の友人の父で香港にいる呉さんに手紙を託し、香港から中国四川の隆昌りゅうしょうの実家の母親に転送してもらいました。

 母親に向けた手紙の中で、夫は自分が台湾で家庭を築き、五人の子どもがいることを伝え、母親を喜ばせようとしました。しかしながら、手紙を出してからしばらくしても、返事はありませんでした。

 いとこの昌萬から手紙が届いたのは、翌民国73年(西暦1984年)のことでした。そこには夫の母親が民国68年(西暦1979年)に亡くなっていること、73歳の叔父はまだ元気であると書かれていました。
 夫は母親の訃報を受けてとても悲しみ、毎晩泣いていました。私はどのように慰めたら良いか分かりませんでした。

 民国76年(西暦1987年)12月1日に政府が大陸への親戚訪問を解禁し、貧しい退役軍人のために2万台湾元の旅費支援と香港までのガイドを用意してくれました。夫は民国77年(西暦1988年)9月5日から20日まで、光先と呂さんと共に故郷に帰りました。光先は夫の遠縁の親戚で、戦時中に夫と一緒に故郷を離れ、軍学校を受験した方です。

 その後民国80年(西暦1991年)、夫が私に一緒に故郷に帰ろうと言ってくれたので、私は喜んで了承しました。
 夫はまず光先夫婦を誘いました。光先の奥さんの菊花は大陸に帰ると聞き、とても喜んでいました。そのほかに、同郷出身で一緒に故郷を離れて軍学校を受験した台南の張さん夫妻、台北で暮らす同じ四川出身の楊さん夫妻も参加することになりました。

 私たち四川成都へのツアーは、高雄の永麗旅行社によって主催されることになりました。ツアーの参加者36人はまず成都大飯店に一泊した後、2日目から10日間各自親戚を訪問し、10日後に成都の雙流空港に時間通りに集合する予定です。

 私は初めて夫の実家に行くので嬉しくて緊張して興奮が止まりませんでした。

 三組の夫婦は600元で8人乗りの車を貸し切り、張さんはテレビを2台、光先と夫はそれぞれ1台購入して土産にと携えました。午前8時50分に出発し、隆昌縣雙鳳鄉に着いた時にはすでに午後4時半でした。一行が雙鳳驛招待所に着くと、夫のいとこの昌萬とその妻の肖棟仙とその子どもたち、昌萬の姉とその夫、三人の娘とその夫たちが全員で出迎えてくれました。

 光先の家の親戚も同様に、全員で迎えにきてくれました。

 夫の故郷の親戚たちとは初対面でしたが、なじみがない感じは一切なく、皆とても親切にしてくれました。雙鳳街で簡単に夕飯を食べてから昌萬の家に向かいます。すでに空は暗くなっていましたが、昌萬の家までは3キロの狭い田舎道を歩かなければなりません。3、4人に一人が手に懐中電灯を持って道を照らしながら皆で歩く体験は非常にエキサイティングです。家に着いたのは夜9時前でした。

 家に着いて私が最も感動したのは、家族たちが私を新妻のように迎え入れてくれたことです。洗面器やタオルには赤い雙喜(訳注:ダブルハピネス)の紙が貼られており、私たちが泊まる部屋は新婚の部屋のように準備されていたので、私たち夫婦は感動しました。

写真上:中国四川の隆昌の新築の家。下:いとこの昌萬が私たち夫婦のために用意してくれた新婚向けの部屋。(上下共に、民国80年撮影)

 光先の家も同様で、毎日話すことが尽きませんでした。10日間はあっという間に過ぎ、私たちは別れを惜しみながら列車に乗り、成都でツアーの参加者たちと合流しました。

 初めて帰った夫の家の皆はとても温かく、義理の両親が眠るお墓にも連れて行ってくれました。

 夫が7歳の頃に義理の父は亡くなっており、夫は義理の母の手一つで育ててもらいました。

 17歳で家を離れて軍学校を受験し、22歳の時に戦争に勝って義理の母の元を訪ねたものの、また家を離れ、民国38年に24歳で部隊とともに台湾にやって来て、その二年後には私と結婚しました。

 私は義理の母の墓前で「もし、もう少し早く会いに来られていたら、私たちは会えていたし、孫たちもおばあちゃんに会うことができて、どんなに良かったでしょう」と話しました。時代の変化で運命はもてあそばれ、人間は成す術もないのです。

 民国82年(西暦1993年)4月下旬、夫と私は木柵の親友たちで結成された「杭州⼀千島湖⼀黃山⼀三峽⼀武漢⼀重慶⼀昆明を巡るツアー」に参加しました。私たちはツアーを抜け、一週間故郷の親戚のもとを訪ねました。

 民国86年(西暦1997年)8月中旬、夫と私は台湾で初めて結成された、山東半島を訪れるツアーにも参加しました。ツアーが終わるとそのまま、三回目となる親戚訪問をしました。

 一週間ほど滞在した後、マカオ経由で台湾に戻りました。帰りの飛行機は午後5時発だったので、夫と相談して千元でタクシーを貸し切り、マカオの史跡・遺跡など景勝地を巡ってから台北に帰りました。

 民国88年(西暦1999年)の8月中旬、夫と私は木柵と老梅の友人たちで結成された九寨溝へのツアーに参加しました。このツアーのスケジュールは非常にタイトで、親戚のところまで行くことができず、昌萬、棟仙、唐然らと会い、息子が故郷の貧しい学生たちに寄付する助成金を杜さんに渡してもらえるよう昌萬に託けることぐらいしかできませんでした。話せた時間は30分にも満たず、名残惜しいまま別れることになりました。

 民国90年(西暦2001年)3月には初めて兩廣エリアへのツアーに参加して、深圳で姪の唐萍に会うことができました。

 民国91年(西暦2002年)8月下旬、夫と私は木柵の親友たちで結成された東北三省へのツアーに参加しましたが、この時は親戚訪問はできず、そのまま韓国とプーケットを旅しました。

 海外旅行に行く度、夫は定年退職金がありましたが、私は収入がなかったため、五人の子どもたちが母の分の旅費を準備してくれました。子どもたちの孝行心に、夫婦で感激しています。

 最後に伝えたいのが、子どもたちが民国95年(西暦2006年)の夫の81歳の誕生日を夫の故郷で過ごそうと言ってくれたことです。光華、春蘭、春芳が私たちに付き添ってくれ、光先夫婦も一緒でした。

 飛行機が成都の雙流空港に到着すると、私たち一行7人は9人乗りの小型バスに乗り、成渝高速道路経由で隆昌の旅館に向かいました。
 翌日は皆で古月湖や貞節牌坊がある通りを巡り、ガイドの熱心な解説に耳を傾けました。

 三日目に車で雙鳳の実家へ向かうと、多くの親戚たちが出迎えてくれました。皆会えたことを喜び、これまで会ったことのなかった二人の姪、棟仙嬸嬸はとても喜んでくれました。話に夢中になっている私たちでしたが、長男の光華が「おじいちゃんおばあちゃんのお墓参りに行こう」と言ってみんなをハッとさせてくれたおかげで、子どもたちの先祖参りが実現しました。

写真上:子どもたちを連れて四川の実家へ帰りました。下:子どもたちと四川の義理の両親のお参りをしました。(上下共に、民国95年撮影)

 お墓参りが終わると、昌萬夫婦は私たちを夫の母校・雙鳳小学校へと連れて行ってくれました。
 私たちは教室の設備のために僅かながら寄付を納め、母校への感謝の意を表しました。

 それから夫がいとこに頼んで予約してもらったレストランへ行き、13のテーブルで親戚や友人、鄉長らを招待してお礼の気持ちを伝えるとともに、夫の80歳の誕生日を祝いました。宴が終わると、皆幸せな気持ちで隆昌のホテルに戻りました。

 四日目の朝早く、私たちは隆昌旅行社の9人乗りのバスに乗り込み、旅の最終日が始まりました。

 自貢市で自流井と恐竜博物館を見学し、樂山の大仏や報國寺を見て、峨眉市に宿泊しました。翌日は峨眉山のあたりを回りました。辺りの景色は幻想的で、古いお寺もたくさんありました。

 山頂まで登ると間もなく完成しそうな金頂寺や、観音の銅像が壮観でした。各地からこの地に来た工人たちは、石を持って3回休憩を挟みながら山を登っても人民元で5元の工賃しかもらえないと聞き、私たち夫婦の若い頃のことを思い出し、子どもや孫に恵まれた今、こうしてあちこちに旅行ができるようになったことを思うと、感じるものが多かったです。

 峨眉山に一晩泊まると、翌日は下山してそのまま成都へ向かいました。この二日間運転手とガイドを務めてくださった孔さんのおかげで楽しく遊ぶことができ、とても感謝しています。孔さんは孔子の末裔だそうで、名所や古跡を非常に鮮やかに紹介してくれました。

 最終日はちょうど端午節で、夫にとって意味深い節句でした。
 夫が17歳で家を離れて軍学校に入ったのが端午節の日だったうえ、戦争に勝って家に帰った日も端午節でした。さらに、民国38年(西暦1949年)に広州から台湾に渡って来た日も端午節だったのです。

 旅行社の林オーナーに豪華なランチをご馳走してもらった後、皆は雙流空港へと向かいました。
 姪の唐然と唐霞は空港で出迎えてくれ、皆は惜しみながら別れを告げました。

 皆は無事に台湾に戻りました。今回は子どもたちを連れて故郷に帰り、親戚に会わせることができました。夫は長年の夢を叶えることができて、とても喜んでいました。

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