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創世記「らしさ」と「ならでは」

3月13日の尾久キリスト教会での高橋武夫先生による説教。題材は創世記第1章26〜31節「それは極めて良かった」。
 今日のテーマは「自分らしさ」。日本ではとかく「女らしく」「学生らしく」「日本人らしく」などと鋳型に嵌めがち。これに対して「○○ならでは」という考え方もあります。最も好きな落語家である故春風亭柳昇は噺の冒頭の自己紹介で「日本国広しといえども春風亭柳昇と言えば私一人です」。ある時にこの口上をうっかり忘れると客席から「自己紹介を忘れているぞ」との声がかかり、噺の途中で自己紹介を切り直したという逸話がある。
 自分の父は職業を転々とした。石工、ラジオ修理工、羽子板絵描き、トタン焼くブリキ加工、アイスキャンディ売り、おでん屋、焼鳥屋、カルメ焼屋、紙芝居屋と変わっていった。紙芝居屋ではラッパを吹いて、一本歯の高下駄を履き、「お富さん」を歌って客を集めていた。カルメ焼屋では「客が自分で焼く」DOIT方式を発明。これが意外に受けた。父親がこのように人前に立つ仕事を好むのは、手伝わされたりするので子供心に嫌だった。しかし今の自分もやはり人前に立つ仕事をしている。これも父親の影響かなと思う。牧師の仕事では「作る」ことが好き。例えば献金箱を作る青写真を描くワクワク感。振り返ってみれば60年もの献身となった。
 創世記に立ち帰ると、人間には神の形が刻印されている。そのこと自体が福音である。失楽園のように自由を履き違えてもいけないが、鋳型に嵌めることは本来の姿からの差別にもなり得る。人から見てどうか?ではなく、神から見ての価値を尊ぶべきである。ある外国人セミナーの講師が会場に入って飲み物を勧められた時にオレンジジュースを選んだ。そうすると居合わせたありとあらゆる人が皆オレンジジュースを頼み始める。講師が「暑い」と言いつつ背広を脱ぐと皆脱ぎ始める。そういう同調性が外国人には不思議であった。曰く「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない」のである。 3月13日の尾久キリスト教会での高橋武夫先生による説教。題材は創世記第1章26〜31節「それは極めて良かった」。
 今日のテーマは「自分らしさ」。日本ではとかく「女らしく」「学生らしく」「日本人らしく」などと鋳型に嵌めがち。これに対して「○○ならでは」という考え方もあります。最も好きな落語家である故春風亭柳昇は噺の冒頭の自己紹介で「日本国広しといえども春風亭柳昇と言えば私一人です」。ある時にこの口上をうっかり忘れると客席から「自己紹介を忘れているぞ」との声がかかり、噺の途中で自己紹介を切り直したという逸話がある。
 自分の父は職業を転々とした。石工、ラジオ修理工、羽子板絵描き、トタン焼くブリキ加工、アイスキャンディ売り、おでん屋、焼鳥屋、カルメ焼屋、紙芝居屋と変わっていった。紙芝居屋ではラッパを吹いて、一本歯の高下駄を履き、「お富さん」を歌って客を集めていた。カルメ焼屋では「客が自分で焼く」DOIT方式を発明。これが意外に受けた。父親がこのように人前に立つ仕事を好むのは、手伝わされたりするので子供心に嫌だった。しかし今の自分もやはり人前に立つ仕事をしている。これも父親の影響かなと思う。牧師の仕事では「作る」ことが好き。例えば献金箱を作る青写真を描くワクワク感。振り返ってみれば60年もの献身となった。
 創世記に立ち帰ると、人間には神の形が刻印されている。そのこと自体が福音である。失楽園のように自由を履き違えてもいけないが、鋳型に嵌めることは本来の姿からの差別にもなり得る。人から見てどうか?ではなく、神から見ての価値を尊ぶべきである。ある外国人セミナーの講師が会場に入って飲み物を勧められた時にオレンジジュースを選んだ。そうすると居合わせたありとあらゆる人が皆オレンジジュースを頼み始める。講師が「暑い」と言いつつ背広を脱ぐと皆脱ぎ始める。そういう同調性が外国人には不思議であった。曰く「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない」のである。

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