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長血を患う女

尾久キリスト教会の4月3日の高橋武夫先生の説教。説教のテーマはマルコ伝第5章25〜34節。題して「本当の触れ合いとは」。有名な「長血を患う女」の場面。ある長が瀕死のわが子を助けて欲しいとイエスに頼んでいる最中に、分の衣に触った者がいた。イエスはその者の姿を見てもいないのに「その女は誰か?」と問うた。おそらくイエスは自分の身体から気が抜けたことをかんじていた。女は場の雰囲気を怖れつつも、衣に触ったのが自らであることを申し出た。イエスは女の信仰を讃え、生理の血が止まらない=長血の病が癒えたことを広い心で伝えた。
 しかし私にはある疑問が生じた。『女が名乗りでなかったらどうなったのだろうか?』という疑問である。牧師夫人に尋ねてみたら「治癒という結果から生まれた名乗りの勇気ということです」と説明を受けた。しかしそれは結果論のような気がした。私にはユダヤ教やキリスト教には「契約思想」が根底にあるような気がする。もし女がバッシングを恐れて正直に名乗り出なかったら、違う結果が生じたのではないかという気もした。ルカ17:11〜:19には、癒された事を知って引き返し感謝したのは10人のうち1人だけ。9人が癒されなかったとも書いていないが、癒されたことが継続したとも書いていない。聖書は書いてあることの裏側に書いていないこともあるのではという気が時々する。「契約思想」とは、神に対する絶対的な愛と服従を示した者(乙)に対しては、神(甲)は必ず報いるということ。『キリスト教はただ優しいだけの宗教ではないのではないか』という気がする。そこには覚悟や決意も必須条件ではないだろうか。これに対して牧師夫人は「旧約聖書はおっしゃる通り、約束と履行という思想がある。しかし新約聖書では神の愛は全ての人という新しい契約です」。

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