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キリストの内に自分を見出す

尾久キリスト教会の高橋武夫先生による10月10日の礼拝説教。題材は新約聖書のピリピ人への手紙第3章8〜16節。題して「キリストの内に自分を見出す」。
 冒頭、押尾俊子師の「私たちは見慣れた世界を、もう二度と見ることはできないと思って見ると、この世界はずいぶん美しく素晴らしいものに目えるのは間違いない」ということばを引用。これは空想と現実の境界線が曖昧であるということを象徴したあとことばである。引き続いて、牧師のいた教会にいた教会員の方が指先に壊疽が生じて右腕を切断するに至った。彼が話すに「右腕の指先に痛みを感じる」と言うのだ。既になくなっている右腕の指先への痛みは、おそらく脳が指先の痛みを覚えているのだろう。あるいは犬には色彩の認識がないと言うが、どうやってそれを人が知ることができたのだろう。それはそれで真実なのだろうが、思わず「講釈師見てきたような嘘をつき」という川柳を思い浮かべる。
 知識は認識であり、個人的色彩の強い経験である。律法者パリサイ人であったパウロはキリストとの出会いが人生の全てを変えた。彼はキリストの内に新しい自分を見出したのである。まさに生命の生まれ変わりである。パウロは「コリント人への手紙」でも「人に知られていようがいまいが〜」と述べ、自然に苦難を選びとることができるようになった。これは自分の中に新しい人間の発見であり、神に祝福された本当の自分を見て感じることができるようになる。キリストの内に自分を見出し続けるということである。世の中はWITHコロナと言うが、これからはWITHジーザス、WITHクライストでありたいものである。

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