青磁鼠と白肌桜

「私」というpersonaは流動的な一貫性を持っている。
周が言う,「らしさ」は往々に凝り固まるものだ。

Vincent van Gogh,Pablo Picasso,
彼らは彼らの美学を唱えられながら,挑も易しく吾のpersonaに囚われる。
画一的なsymbolであったはずなのに,表現者たる陽を得たからに違いないだろう。

鈍足で蛇足な私だが,21年間を換価し得るとするならば,遊覧船で三途の川を渡れる程度と自負している。
とまぁ,吹けば軽く舞って沈む様な自尊心は立派に根付き,実際遊覧船に乗れたとしても若しかすると蜘蛛の糸であるやもしれない。

蛇足ながら私は医者になりたい。
看護学生だった頃,一日の実習目標は「~する。/ ~できる。」と明示するべきであった。
残念ながらその勇気は今現在消沈しているが,それでも私は医者になりたいのだ。

「私」のpersonaは,深層に込めてある。
「私」が「私」のpersonaを敢えて押し込めているのである。俯瞰するのも勿論「私」である。

医者になりたいと思う,男と遊びたいと思う,友人の誕生日プレゼントに満悦,何れの「私」はスターバックスで抹茶フラペチーノを嗜んでいる。
青磁鼠の液体に白肌桜の滑らかさを溶かしたもの。

「私」のpersonaは悠長だ。
鈍足で蛇足で醜いけれど,何れの「私」が選んだ未知道を辿える「私」もいるのである。

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