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夕暮れの丘

 小高い丘の上、何もない場所に木挽小屋がひとつ。その前に置いた古いロッキングチェアに、老人は腰かけていた。時刻は夕暮れに差し掛かるころ。私は今夜の宿を求め、ゆっくりと近寄って行った。
 老人が煙草を持つ指には、無数の火傷の痕。さもありなん、彼は煙草が己の皮膚を焼きながら燃え尽きるまで、決して手放そうとしない。尚も指を焼かれながら、彼は朗らかに挨拶した。
「何をしているのですか」
 私が問えば、彼は穏やかな微笑みを崩さず答えた。
「世界の終わりを待っているのさ」
 それはあまりに穏やかで、冗談でも言うような軽い調子だった。ふざけているか、己の人生を皮肉っているのだろう。そう結論付けて、私は宿を一晩借りられないか、と尋ねた。

 すると、老人は帽子の下から私を見た。なにか奇妙なものでも見るように。
「今晩も何も、今日で世界は終わるんだ。こんな老いぼれのところに居ていいのかね」
 なんだ、ボケているのか。とはいえ、ここを去れば次の街までは一晩歩かなくてはならない。その時、逡巡する私と彼を夕立が襲った。
 雨は容赦なく肌を濡らす。すると彼が叫んだ。
「見ろ、天が滅びを告げている!祝福の雨だ!」
 立ち上がり、よぼよぼとした体で小躍りしだした老人を止める術もない。夕立が過ぎ、空は赤く染まった。燃え上がる炎のようだ。季節特有のうだる暑さと合わせると燃えるような感覚に襲われる。
 もしかして、このことを言っているのか。世界の終わりというのは。
 老人は尚も歓喜の声を上げていた。私を手招きし、よたよたと小屋へ入っていく。
「あんたも来い!ゆっくり寝てりゃ明日には灰だ」

 色々おかしいものの、宿は借りられそうだ。この際何でもいいと、私は彼の後に続いた。彼は鼻歌を歌いながら大雑把なスープを作り、洗濯物を畳み、日常を楽しんでいる。
「世界が終わるのに、いつも通り準備をするのですか?」
 そう私が問うと、彼はこともなげに返事をした。
「終わるからこそ、普段通りの生活をするのさ。それが幸せってことだ」
 その後は故郷の歌らしきものを歌いながら皿を片付け、ソファーに作った寝床を勧める。ありがたく横になって15分後には、隣のベッドから安らかな寝息が聞こえてきた。
 私は耳を澄ましていたが、いつもと変わらない、暑い夜だ。ただそれだけ。疲れた体はじきに目を閉じ、眠りへと引き込まれていった。

翌朝。目を覚ましてきた彼に告げた。
「終わりは来ませんでしたよ?」
すると彼は言うのだ、
「何を言っているんだ、今日こそ終わりが来る日だ」
私はまだ帽子をかぶっていない彼の目を見た。するとそれは白濁しており、何をも映してなどいなかった。ああ――狂っている。

 朝の支度をする老人を横目に、素早く旅の荷物をまとめる。もうここにいてはいけない。
「世界が終わる前に、故郷に帰ります」
 そう言うと老人は嬉しそうに目を細めた。食べ物や新しい衣類を差し出してくる。
「それは本当にいいことだ。間に合うように行きなさい。君の旅路と幸せな最期に幸運を」
 支度を終え、昨日と同じ位置に座ってタバコを吸いだした老人を背に、私はまた歩き出した。


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