#602 初めての指名を受けた男
タチバナが案内された席で携帯をいじっていると、後ろから額に汗を浮かべた男が現れた。
「あ、お、お、お待たせいたしました・・。」
タチバナは鏡越しに男と目を合わせる。
「ほ、本日ご指名いただき、お客さまを担当させていただきます・・タノウエです。よ、よろしくお願いします・・。」
「あ、よろしくお願いします・・。」
「本日は、ご、ご指名していただきまして・・本当にありがとうございます・・。」
「あ、いえいえ。前回切ってもらった時、すごい周りから評判良かったんで。前回みたいな感じで今回もお願いしたいんですけど。」
「あ、ありがとうございます・・。」
タノウエは口元を押さえながら嗚咽し始めた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「嬉しくて!!!!」
「はい!?」
「指名していただくのが初めてで!!!」
「あ、そうなんですか?」
「この秋からお客さまの髪の毛を切れるようになりまして!ずっとフリーで切ってきてたんですけども!今回ついに、初めてのご指名をいただけて!!続けてきてよかったなって!!」
「ああ、そうですか・・。」
「こんなに嬉しいんですね!!!!!」
「あ、はあ・・。」
「ここまで長かったんで・・。何度も辞めようかとも思ったし・・。色々あったんで・・。ありがとうございます!!!!」
「あの、すみません。切ってもらってもいいですか?」
「あ、ごめんなさい!そうですよね!」
タノウエは袖で乱暴に涙を拭くと、気を取り直してタチバナの後ろに立った。
「本日はどういった感じで?」
「えっと、伸びた分ぐらい切ってもらって。サイドは刈り上げちゃってください。」
「おぅえ!!!」
タノウエは口元を押さえて嗚咽した。
「だ、大丈夫ですか!?」
「とてつもない緊張が襲ってきてしまいました・・。」
「はい?」
「指名していただいたタチバナ様のご期待に添えるかが不安で・・。」
「なんでですか!」
「あれ、せっかく指名したのになんか違うなみたいな、タチバナ様を失望させてしまったらどうしようという不安と、自分の精神状態から来る焦りで・・吐きそうです!!!」
「大丈夫ですか!?ちょっとしっかりしてください!!」
「緊張しいで!!タチバナ様からの指名が入ってから、ここ1週間ほど何も手につかない状態でして!!もうすぐタチバナ様来ちゃうじゃん、みたいな!!」
「嫌なイベントみたいに言わないでもらっていいですか!?」
「もうタチバナ様がジェイソンのように思えてきて!!もちろんいい意味で!!僕にとっては待望のジェイソンなんですけど!!」
「意味がわからないです!」
「すみません!精神状態がぐちゃぐちゃで、自分でももはや何を喋っているのかがわからないという!!あー、しんどい!!」
「は!?」
「こんなに苦しいなら指名なんかされなきゃよかった!!」
「あの、すみません・・。」
「はい?」
「・・・・チェンジで。」
「え?」
「まさか美容室でこのセリフ言うとは思いませんでしたけど・・。チェンジでお願いします。」
その言葉を聞いたタノウエは膝から崩れ落ちた。
「タチバナ様ぁ・・。」
「チェンジで・・。」
「タチバナ様ぁ・・。」
「名前呼ぶのやめてもらっていいですか?」
「行かないでください、タチバナ様ぁ・・。」
タノウエは泣きながらタチバナの膝下にすがりついた。
「やめてください!!」
「初めての僕のお客さんなんです!!!待ってください!!!」
「離せ!!!もう俺はあんたの客じゃない!!!」
「タチバナ様ぁ!!!!」
タチバナは店を飛び出して行った。
「タチバナ様ぁ・・。」
タノウエは泣き崩れた。そのままどれくらい時間が経っただろう。店の電話が鳴り、タノウエは受話器を取った。
「お電話ありがとうございます。ヘアサロンキューティーです。カットのご予約ですね。担当者のご指名ございますか?・・・・タノウエ・・ですか!?」
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