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するめ図録⑤

 正宗が手紙を読んだのか握り潰したまま捨てたのか、結局はわからなかった。返事は一向に来なかったし、それからの正宗に変わった様子も見られなかった。今までと何も変わらず、正宗は自分の暮らしを生きていた。

 はじめに感じた悔しさや怒りは次第におさまってきたものの、キヨのこころは乱れたままだった。もはや自分が何をどうしたいのかわからなかった。

 手紙を握り潰したということは、きっと自分のことを覚えてはいるということだろう。けれど、覚えてはいるが関わりたくはないということだろう、とキヨは正宗のその行動から感じた。

 手紙なんか出してどうしたかったのだろう。やはり正面から会いに行きたかったのだろうか。キヨはスルメを噛みながらうろうろと狭い部屋を行ったり来たりした。どうして置いていかれたはずの自分の方が隠れるようにこうして影から見つめていなければならないのだろうか。どうして戻ってきてくれなかったのか、と会いに行って責めても構わないではないか。でも、とキヨはスルメを噛み切った。自分はそうしなかった。出来なかった。それは、正宗の生活を壊してはいけないとどこかで思っているからだ。それは、どうして。それは、正宗のことを今でも好きだからだ。

 キヨは悔しさと恥ずかしさに身を悶え、思わず手にしていたスルメを畳に投げた。一体どうして自分はここまで馬鹿なのだろうか、と涙が溢れてきた。ここのところ涙は簡単に出てきた。

 どうして好きなのだろうか、どうして忘れられないのだろうか、キヨは涙を流しながら考えてみた。けれどそれは考えてもわかることではなかった。畳に横たわる干からびたスルメを見ながら、キヨの口からは生臭いため息しか洩れてこなかった。

 あの夜、スーパーで見つけたのがこのスルメだった。最初は自分の食べる分を買っただけだった。家に帰ってきて、いつも食べているものとは違うそのパッケージの裏を見て、思わずあっと声が出た。製造のところにある町の名はキヨが生まれ育った町の名だった。

 袋を開けて大きいままのスルメを一匹、ちぎらずにそのまま口に含んだ。何度か噛んだり吸ったりしているうちにしょっぱさが口のなかにじんわりと広がり、胸には懐かしさが込み上げた。他のスルメとどこか違うといわれてもわからなかったが、自分のいた町で作られたものだと思うと自然と懐かしさが湧いてきた。

 随分遠いところまで来てしまったな、とキヨは思った。でも、どこからして遠いと思うのだろう。距離の問題なのだろうか、それとも人生の長さのことなのだろうか。キヨはそんなに残りが長くはないだろう自分の人生を、スルメを噛みながらゆっくりと振り返った。今日に至るまでの日々を思い、そんなに長くも遠くもないなと小さく呟いた。

 翌日、キヨはそのスルメをまた買いに行き、正宗の家のポストに入れたのだった。

 それから二日に一度のペースで正宗の家のポストにスルメを入れた。そして窓辺に座り、スルメを食べながら相変わらず正宗の家をずっと見続けた。

 けれど、そんな日々も長く続かず終わりを告げることとなった。数週間後、キヨは倒れスルメをポストに入れるどころか、もう正宗の姿を見ることも出来なくなった。


 市の職員が白い布に包まれた骨箱と一通の手紙を持って突然訪れたとき、正宗はそれほど驚かなかった。いつかこうしたかたちの再会になるだろうと、心のどこかで思っていたのかもしれない。

 職員は正宗を見ると軽く会釈をし、事務的な口調でキヨの死を告げた。身寄りはなかったが残されていた手紙が遺書のようになっていて、あれこれ細かいことも書かれていたので助かりました、と正宗に骨箱を渡した。

 こうなるかもしれないと思っていたが、キヨで両手をふさがれた正宗は何を思えばいいのかわからなかった。申し訳なさや悔しさやかなしさや愛しさや、いろいろな想いがめまぐるしく通り過ぎていった。

 職員は、用件をすべて伝えるとすぐに帰って行った。若い職員の背中をぼんやりと見送りながら、喉の奥が固くなり息が詰まるような感じになった。

 正宗は、キヨが自分の家のすぐ向かいに住んでいることも、ポストにスルメを入れていることも知っていた。知っていて何も知らない振りをしていた。

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