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するめ図録③

 日が暮れると、キヨは買い物に出掛けた。明るいうちはうっかり顔を合わせて自分だと気付かれることもあるかも知れないと思い、外出を控えるようにしていた。

 町を出て初めて都会の夜の明るさを目にしたとき、キヨはそれが自分の想像以上でとても驚いた。その明るさに、どうして眠らせてくれないのだろうと思いながらも、ほんの少しさみしさが紛らわされた。

 しわくちゃになってしまった自分に正宗が今更気付くこともないだろうとは思ったが、キヨは慎重に行動した。特にこの一週間、ポストにスルメを忍ばせるようになってからは。

 何十年振りに正宗の姿を見たのは、一年程前、深夜のテレビ放送だった。

 食事の後ついうっかりうとうとしてしまい、目を覚ますともう真夜中だった。だるい体を起こして、片付いていない食卓にため息し、顔を上げたときだった。

 つけっぱなしになっていた四角い画面のなかに映っていた人物に、キヨの目は釘付けになった。急いでテレビに近付こうと膝をずって前に進んで、肘を机にしたたか打ちつけた。びりびりと痛みが走ったがそんなことには構っていられず、画面に近付いてその顔を凝視した。

 よく見ると下の方に小さく大学名と、教授という肩書きがついており、さらにその横には海洋生物学者と書かれていた。それに続く名字は違っていたが、下の名は正宗だった。

 思わず画面に触れようとすると、びりっと小さな音がして指先に静電気が走った。キヨの目はじんわりと潤んだ。何を思えばいいのかわからなかった。ずっと会いたいと思っていたはずなのに、待っているつもりだったのに。年を重ねた正宗のその姿を見て、キヨは何も考えられなかった。

 知る気になれば情報など意外と手に入るもので、それから、正宗が結婚し婿養子になり名字が変わっていたこともわかった。

 そういう現実もあるかもしれない、とキヨは薄々思っていた。それでも一切何の連絡もないままに、正宗がそうやって自分とは全く切り離れた人生を送っていることに対する悔しさのようなさみしさのようなものが澱となって胸に積もった。

 ふいにもようやく正宗がどうしているのか知り会いたい気持ちも生まれてはいたが、会いに行くことはしなかった。出来なかった。もしかしたら自分のことなどもう覚えていないかもしれない、という恐怖があった。それに会ってどうなるわけでもないということもわかっていた。

 それでもやはりキヨは正宗のことを諦めきれずにいた。正宗が自分のことを忘れてしまっていても仕方ない。話などしなくてもよい、ただもう一度だけでも彼がきちんと生きてそこにいることを確かめたい。そう思い、キヨは正宗のいる大学に足を運んだ。その姿を見つけることはなかなか出来なかったが、何度か足を運び続け数ヶ月が経った頃、ようやく正宗の姿を見かける機会が叶った。

 正宗は若い学生たちに囲まれて、ゆっくりとこちらに歩いて来るところだった。その姿を認めるとキヨは咄嗟に建物の陰に隠れた。

 テレビの画面で見るよりもがっしりとした体つきは、キヨの知る若いときの正宗よりも大分逞しかった。自分より年上のはずだったが、その姿は年よりも若々しく見えた。キヨは急に自分がみすぼらしく思え、明るい日差しのなかで声を上げて笑いながら行く学生たちの群れとその中心にいる正宗が恨めしくなった。艶のある長い髪を揺らして正宗の横を歩く女子学生が本当は自分だったような気がして、あまりにもかけ離れてしまった今の自分に低く呻いた。

 振り返ることなく去って行く正宗の背中を見つめながら、動悸がだんだんと激しくなり今にも倒れるかと思ったが、キヨの足は自然と動き出していた。気付けばその背中を追いはじめていた。

 声を掛けてみようか、何度もそう思った。けれど遠くはないその背中に手を伸ばすことは容易ではなかった。次の角で追うのをやめよう、あの建物のところまで行ったらくるりと後ろを向いて帰ろう、そう思いながら正宗の後をずっとついて行った。

 しばらく行くと正宗は地下鉄に乗った。少し迷ったがそれでもまだついて行った。ホームに電車が滑り込んで来ると隣の車両に乗り、車両の端に立ち正宗の様子を伺った。

 キヨの胸は鳴り止まなかった。もう正宗には何の期待もしていないはずだった。でも、やはり自分は正宗のことが好きなのだとキヨは改めて感じていた。年のせいだとか、不整脈なんかであるはずがない。この胸の高鳴りは、若かりし頃のものと同じだ。

 ほぅっと小さく息を吐きながらキヨはかなしい気持ちになった。それに気付いたからといって何になるだろう。もう、何がどうなるわけではないのだ。自分と正宗は随分と遠く離れたところまで来てしまった。

 キヨが思案していると三駅程行ったところで正宗が降りた。何も考えずにキヨもホームに足を着けていた。止まぬ鼓動を抱えたまま、後をつけ続けた。夢でも見ているような曖昧な輪郭の興奮と少しの罪悪感のような後ろめたさを持ちながらも、足が動きを止めることはなかった。

 地上に出て十分程歩くと正宗は一軒の家の前で止まり、玄関先のポストを確認するとなかに入っていった。キヨは少し離れたところからその様子を眺めた。

 その後、キヨはまた大学に足を運んだり、何度か正宗の家まで行ってみた。勿論、話し掛けることも、ましてや玄関の呼び鈴を鳴らすことなどしなかった。ただ正宗の姿が見られることがあると嬉しかった。嬉しくて、そういうふうに思ってしまう自分が悔しくもあった。

 あるとき、正宗の家の近くまで行った帰りに駅前の不動産屋の前で足が止まった。貼り出されている何枚かの物件案内を見ながら、すぐ近くに住んでしまえば毎日正宗を見ることが出来るのではないかと思っている自分に気付き、キヨはその思いつきに自分で少し怖くなった。でも、それはとても真っ当なことに思えた。こうしてちょくちょく通う位なら、もうこの近くに住んだ方がいいのではないだろうか。

 キヨの胸は妙な高鳴りを覚えていた。そういう行動に出ることが、傍から見たら奇妙に思われるかもしれないと心の隅では思ったが、一度考えだすとそうすることが一番いいように思えた。

 どこかのスピーカーから、子どもは気をつけてお家に帰りましょう、というアナウンスが郷愁を誘うメロディと一緒に流れてきた。陽が落ちてきた駅前の通りは帰路に急ぐ人の姿が多かった。

 キヨはぶるっと肩を震わせた。わたしが気をつけて帰るところはどこなのだろう、そう思いしばらくそこから動けなかった。

 物件案内の前で立ち尽くしているキヨを店内から見ていた若い女の店員が、笑顔で声を掛けてきて、キヨはやっと我に返った。少し躊躇ったがまっすぐ帰る気持ちになれず、白々しく明るい店内に入った。ほんの思いつきのような気持ちでこの町に住もうとは思ったが、まさか正宗の家の前に住むことになるとはそのときのキヨも思っていなかった。

 出された熱いお茶を啜りながら何となく物件の条件や希望を伝えていくと、何件か紹介されたもののなかに今の物件があった。

 木造の小さなアパートの部屋を内覧してみると、居間として使う部屋の前には大きな欅の木が植わっており日当たりはあまりよくなかったが、木で隠れた窓のちょうど残りの半分からは正宗の家の玄関がよく見えた。斜向かいの玄関には、そのときあたたかな灯が見えていた。

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