するめ図録⑥
父が倒れたのは、正宗が海辺の町を出て数年後のことだった。小さな町では満足な治療を受けられぬと、その頃正宗が住んでいた大きな町のすぐ近くへ父母共に越してきた。懸命な治療と看病を続けたが、父の病状は思わしくなく、それから半年程で他界した。すると父に続くように母も病を発症し、床に臥した。
正宗が母から昔の話を聞かされたのは病室だった。誰かが持ってきた名前の知らない花の匂いが濃く流れていた。
帰ろうと立ち上がった正宗の手を、母は痩せ細った手で掴み、突然謝った。正宗が首を傾げると、おまえが看取ってくれた父は、おまえの本当の父ではないのだ、と母は涙を流しながらいった。
突然の言葉に正宗はただ放心した。何をいっているのかと母の手を優しく撫で、ゆっくり休んだ方がいいというと、母は力強く首を横へ振った。わたしは父さんと出会う前にもうおまえを身籠っていたの、と母は掠れた声で話しはじめた。手を握られたままの正宗は、耳を塞ごうにも塞げず母の語るところを聞くより他に出来なかった。
まだそのときの正宗よりも若かった頃、母はある海辺の町のスナックで働いていた。そのスナックは市場に近く、そこには町以外の船も出入りしていたので、他所から来る漁師の客も多かった。
あるとき、店が終わり家に帰り着いて玄関の扉に手を掛けると、急に後ろから羽交い絞めにされた。訳もわからぬまま必死で抵抗したが力で敵うわけもなく、そのまま家のなかに押し倒された。何とか叫び声を上げたが、するとすぐに殴られた。それからは怖くて声も出せなくなり、されるがままになるしかなかった。窓から入ってくる街灯のぼんやりとした明かりのなかで見た相手の顔は、数日前から店に出入りしていた他の町から来ていた漁師だった。
母は警察に届けを出さなかった。そんな恐ろしいことを自分の口で他人に語るなんていうことは、怖くて、恥ずかしくて出来なかった。もう忘れるしかない、忘れてしまえば何もなかったことになる、そう自分にいい聞かせた。けれど現実はそれを許さなかった。翌月に妊娠がわかった。
男はそれ以来、店に顔を出さなかったが、それから半年近く経ったとき、その町の別の店から出てくるところを母は見つけた。男の姿を見ると何も考えずに駆け出していた。
男は逃げようとしたが、母に腕を掴まれると大人しくなった。あのときと同じ人間には見えなかったが、間違いなくあのときの男だった。母は、その男に自分の妊娠を告げ、お腹の子を認知してくれるよう頼んだ。結婚は勿論しなくていい、したくない。でも子どもの為に認知をしてくれ、そういった。男は母の殺気に押されるように頷いた。
今、思い返すと、これから一人で育てていくのに必死だった、と母は吐息を洩らしながらいった。
それから正宗が産まれ、首が据わる頃になると、母は町を出た。そしてその先で父と出会い、二人は結婚した。
平穏な日々は続いたが、それから十数年が経ち、ある町に引っ越してそこで母はあのときの男を見かけた。すべてを忘れられていると思っていたが、男の顔は忘れていなかった。母は道の向こうを歩く男の姿を目にして動けなくなった。男は妻らしい女と、娘とを連れていた。楽しそうに歩くその姿を見て、目の前がちかちかした。
この町で暮らすのならば、あの男に見つからないようにしなければ、そう思った。けれど決して広くはない町だった。
自分が男を避けてはいても、その事情を知らぬ息子は男の娘といつのまにか親しくなっていた。そのことを知るのにもさして時間はかからなかった。二人の間に何かが起きてからでは遅いと狼狽えたが、正宗には何となく注意を促すことしか出来なかった。だから、あの町から一人で出て行くと聞いたとき、内心ほっとしたのだと母はいった。
父はすべての事情を知り、正宗を自分の本当の子だと思ってくれていたのだ、それだけは信じてくれと母は目を潤ませた。
正宗は母の手を握りながらその話を聞いて、自分の顔が次第に青ざめていくのがわかった。そのとき、正宗はまだキヨの元に戻るつもりでいたのだ。
あの小さな海辺の町でキヨと抱き合ったことを思い出して、息が止まりそうになった。体中がひくひくと痙攣するのを押さえつけるのに必死だった。血の気の引いた顔で、どうして今更そんな話をしたのだと心のなかでは罵りながら、話してくれてありがとうと正宗は母に呟くしか出来なかった。それから数日して、母は息を引き取った。
正宗は母の遺骨を抱きながら、あの話は墓場まで持って行くのだと固く決意した。
それからしばらくして勤めていた大学の恩師の娘と結婚をしたが、子どもは作らなかった。養子という形で子どもを持つことはしたが、本当の血縁者はもう正宗にはキヨしかいなかった。
正宗の家庭は傍から見れば幸せそのものだった。勿論、正宗もその生活に穏やかさを感じていたし、今ある家庭というものをとても大切にしていた。けれど、どこかで自分は幸せになってはいけないと思い続けていた。
キヨの遺骨を受け取った正宗はどう家族に説明すべきかと逡巡したが、若かりしときの出会いを素直に話すことにした。
かつて住んでいたことのある町で結婚を約束した人がいたが、自分は研究の為にその町を離れ、それから音信不通になっていた。気がかりではあったが、まだ十代の者同士の約束だったし相手ももう忘れているだろうと思っていた。
もしかしてポストにスルメを入れていたのも、と妻が静かに口を開くと正宗は小さく曖昧に頷いた。ただのいたずらだろうという正宗の言葉を妻は疑ってはいなかったが、そのとき、本当は正宗はそのことをわかっていたのだと感じた。
妻は嫌な顔ひとつせず、キヨを包んだ白い箱にそっと触れ、ごめんなさいね、と呟いた。正宗はその妻の手に自分の手を重ね、これでよかったのだと思った。
もう自分のなかではキヨは恋人ではなく血を分けた者となっていたが、今、妻のなかではキヨは自分のかつての恋人になっている。ほんの一人でも、そんな自分たちの短かった青い春を知る人を作ったのは、キヨへの償いにも似た想いからだった。
その夜、皆が寝静まった後、正宗は物いわぬキヨを前に頭を床に擦りつけ声を殺して泣いた。
翌日、正宗はキヨを連れて海辺の町へ向かった。遠い、遠いと思っていたがそれも昔の話で、今や交通手段は発達しあっという間に二人を運んだ。
キヨの父と母が眠る海の見える高台の墓地を前に、正宗は小さく深呼吸をした。潮の匂いが体のなかに充満し、涙が出そうになったが堪えた。寺の者には前日に連絡をして事情を説明していたので、正宗が行くともう納骨の準備が整えられていた。
自分の母を手籠めにした、実の父親と、かつて愛した女性、それも本当は兄妹であったキヨが同じ墓に納められるというのは、複雑な想いを抱かずにはいられなかった。しかしすべてはキヨの望んだことだった。これでよかったのだ。キヨは何も知らないままでよかったのだ、正宗はそう自分にいい聞かせた。本当のことを知ってしまった自分の気持ちよりも、結局迎えに行ってやることの出来なかったキヨの望んだ通りにしてやりたかった。
鞄のなかには市の職員から預けられた手紙と、家のポストに届けられていた青い封筒が入っていた。くしゃくしゃになったその手紙に視線を落とし、どうしてあのとき咄嗟に握り潰してしまったのかと正宗は吐息を洩らした。キヨのことを想っていながらも、そうやって連絡が来るのをどこかで怯えていたのかもしれない。
鞄のなかに手を差し入れそっと手紙に触れると、正宗はその横に入れている一冊の本を取り出した。それは、今度ようやく初めて出す本だった。
弔いが終わると、冷たい墓石の前にその本を置き、さらにキヨがポストに入れていたスルメをそっと載せた。
「この約束だけは守りました」
口に出してそういうと手を合わせ、静かに頭を垂れた。海からの風が強く吹き、本の上のスルメがくるりとまわった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?