戦艦「大和」戦没79年追悼式
今年は、特攻80周年を迎えます。
日本海軍の戦艦「大和」は同型艦「武蔵」とともに、世界最大の戦艦として知らない日本人はいないでしょう。
昭和20年4月1日、いよいよ米軍が沖縄に上陸、日本軍は、本格的に特別攻撃隊を組織し、知覧、万世の陸軍飛行場、鹿屋串良の海軍基地などから飛び立ちました。
絶対国防圏が突破されテニアンなど太平洋の島々から飛び立つ米軍爆撃機によって、日本本土は連日 にわたり、非戦闘員が暮らす都市に激しい無差別空襲を行っていました。
「戦艦大和」は、米軍の侵攻阻止と自軍の掩護を目的に、4月6日、軽巡洋艦と駆逐艦8隻を率いて沖縄へ特攻出撃しました。
山口県の徳山湾を出撃して5時間、早くも艦隊はアメリカ軍の潜水艦によって動向を察知されます。攻撃を受けるのは時間の問題となりましたが、この日は交戦することなくそのまま翌7日を迎えます。
正午過ぎ、沖縄近海の米軍空母から発進した艦載機の大編隊が襲来、艦隊は猛攻にさらされます。当日は低い雲が垂れ込む曇天。米軍の艦載機は雲間を縫うように攻撃を仕掛け、応戦する「大和」など日本艦隊は、対空射撃に困難を極めたといいます。
随行した軽巡洋艦や駆逐艦が撃沈されていきます。「大和」も回避行動をとりますが、魚雷や爆弾が次々に命中、戦死者も増大し、浸水により次第に艦の傾斜が増していきました。
2時間弱の激しい戦闘の末、「戦艦大和」は12本の命中魚雷(防衛研究所戦史『沖縄方面海軍作戦』)や10発以上の命中弾を受けます。14時半前、ついに「大和」は大爆発を起こしながら壮絶に最後を迎え沈没。駆逐艦雪風など4隻のみが本土へ帰還し、その壮絶なる最後を伝えました。
▶︎戦艦「大和」戦没79年追悼式
戦艦「大和」戦没七十九年追悼式が、桜咲く令和6年4月7日に旧呉海軍墓地「戦艦大和戦死者之碑」前にて開催されました。桜の花びらが舞い散る中での追悼式。亡き英霊を弔いました。
合掌
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?