ばかばかしい「論理」

ばかばかしい「論理」

 東京五輪の「無観客開催」が決まった。そのことを受けて、菅がこんなことを言っている。(読売新聞、https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20210710-OYT1T50099/ )

「大きな困難に直面する今だからこそ、人類の努力と英知によって難局を乗り越えていけると東京から発信したい」とも語った。
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 菅は「安心安全」とか「努力」とか「英知」ということばが好きなようだが、もしほんとうに「人類の英知」によって困難を乗り越えようとするのなら、「英知」は観戦の危険があるときは五輪を開催しないという決断することだろう。
 それは「英知」というほどのものでもないし、努力というほどのものでもない。あえていえば「我慢」だろう。楽しみたい気持ちはわかるけれど、いまは我慢しよう。我慢することが、自分を助け、みんなを助けること。みんなで助け合いをすることを「公共の福祉」(憲法第12条)と呼ぶことができるが、いまこそ「公共の福祉」の精神を行かすべきときである。
 自民党はこの「公共の福祉」ということばが嫌いで、「公益及び公の秩序」(自民党憲法改正草案、2021年)と言う。さしずめ「無観客」というのは「公の秩序」になるのだろう。「公益」というのは、オリンピックを開催することでもたらされる「お金」ということになるのだろう。でも、オリンピック開催によって「潤う」のはだれなんだろう。「公益」というが、だれのところに「益」が入ってくるのだろうか。IOCには巨額の「放送権料」がころがりこむらしいが、その「益」は日本国民に再配分されるもの? 違うだろうなあ。。日本と日本人にとっては「益」でもなんでもない。せいぜいが、菅の周辺に何がしかの「見返り」がある程度だろう。
 コロナの感染拡大の危険性を考えれば、大会を開かないことがいちばん。そして感染拡大がおさまるならば、医療費の国民負担(税金も含む)も少なくなる。支出が減るということは、収入が入るように目に見える「益」ではないが、やはり「益」なのである。金を使わずにすむ。金をほかのことに使うことができる。
 そういう方法を考えるのが「英知」というものだろう。
 「安心安全な大会」といっていたのに、その「安心安全」のために「無観客」にするというのが「英知」だろう。難局(コロナ感染拡大)を「乗り越える」のが「無観客」というのなら、大会を開かない方がもっと万全だろう。万全の策を探り、それを実践するのが「英知」のつとめだろう。

 五輪ではほとんどの競技で児童・生徒向けの観戦特別枠が取りやめになった。このことについて、読売新聞は、菅に劣らずばかばかしいことを書いている。
https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20210710-OYT1T50086/
無観客となった自治体の子どもたちは、完全に観戦の機会を失うかもしれない。将来を担う世代に五輪の意味や価値をどう伝えるかも、今後の大きな課題だ。
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 「五輪の意味や価値」ということばが出てくるが、読売新聞は「五輪の意味や価値」を同定義しているのか。菅の「英知」とか「努力」と同じように、単なる飾りことばだ。
 五輪は世界の選手が一堂に集まり競技し、選手だけではなく観客も一体になって楽しむことで、世界がひとつであることを実感することだろう。広い会場の観客席で、児童生徒だけが世界一流の選手の競技を見たとして、それでどうして「五輪の意味や価値」を体得できるだろうか。そこから生まれるのは「自分たちは選ばれた人間だ(特権階級だ)」という意識ぐらいだろう。世界にはいろんな人がいるということを実感することもできない。広い会場に世界中からいろいろな人が集まってきて、ことばの通じない隣の人といっしょに楽しんでこそ「世界」を実感できる。同級生と一緒に見ているだけでは「世界」は実感できない。
 そんなことをするくらいなら、大谷選手が打つホームランを見に、アメリカへ旅行した方がいい。「世界中」とはいわないが、多くの人がホームランを見に来ていて、大谷がホームランを打てばスタジアムがどよめくだろう。三振したって、それはそれで、がっかりのため息がスタジアムをつつむだろう。そういう瞬間を体験してこそ、感動の共有がある。
 「英知」だとか「価値」だとか、そういうことばは、それだけでは何の意味も持たない。そのことばが指し示している「実態」と結びつけて「内容」を特定しないといけない。ことばの「空回り」に、ジャーナリズムが手を貸して、一体何になるのだろう。


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