自民党憲法改正草案再読(18)

 第26条は、「教育権、教育の義務」。

(現行憲法)
第26条
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
(改正草案)
第26条(教育に関する権利及び義務等)
1 全て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。
2 全て国民は、法律の定めるところにより、その保護する子に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、無償とする。
3 国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。

 第一項、第二項は表記と文言の改正。「子女」を「子」に改正しているのは「子女」ということばがいまでは「死語」に近いからかもしれない。男女平等の時代なのだから、この改正はいいと思う。
 問題は新設された第三項。
 「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできない」というのは、その通りだと思う。教育が「義務」であるのは、学び、新しいものをつくりだしていかない限り、どういう分野でも「発展」はありえないからである。国の未来にかぎらず、人間の未来を切り開くのに教育は不可欠である。
 しかし、私がいま書いたように、教育は「人間の(個人の)未来を切り開くのに不可欠」なのであり、「国の未来」は、その後の問題である。個人がどのような国を理想とするかによって国の形はかわってくる。国の形は国が決めるのではなく国民が決めるものである。それが国民主権ということだ。
 だから「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできない」というのは事実だが、そのことばを「国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない」という形でとりこんでしまうと、意味はずい分違ってくる。
 「国の未来を切り拓く」のに必要ではない「教育(学問)」はないがしろにする。「国の未来を切り拓く」のに必要な教育のための「環境整備に努める」ということになってしまう。
 自民党が掲げる「国の未来」とは何か。前文に、「教育」というこことばをつかい、こう書いていた。

教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる

 科学技術振興と経済活動を結びつけている。科学を発展させ、それを経済に結びつける。経済を発展させるためる科学にが育つように、人間を「教育」する。それが国の目的である。自民党の大好きなことばをつかって言えば「公益及び公共の秩序」のための教育を推進するということである。
 学問にはとうぜん「政権を批判する学問」もある。「科学」「経済」と直接結びつかない「学問」もある。そういう「学問(教育)」をどうするか。「公益(自民党の利益)及び公の秩序(自民党の理想とする社会体制)」に反するものは排除するという形で進むのが、改正草案の「教育環境の整備」ということになるだろう。
 いま進められようとしている「教育環境」で言えば、高校の「国語」からの文学の排除もそのひとつだろう。文学というのは基本的にまったくの「個人」のものである。そして、その完全に個人のものであるということは、裏返せば、作者が何を感じているかを無視して、自由に考えることが許されるということである。作者の思っていることとは無関係に、自分の考えを語ることができる。感想をいう、批判をすることができるというのが文学の特権である。ことばは「考える」ために必要なものであるけれど、そのことばによって何を、どう考えるかは誰からも規制されない。自分で「考える」。ことばをつかって考える。そうやってできあがったものが「文学」である。とうぜん、そこにはあらゆる「批判」が含まれる。
 自民党が進めようとしている「文学排除」は、ことばを「個人」が「個人の意思」でつかうことを拒絶することなのである。自民党が考えるように、ことばをつかって考えさせたい。ことばを自民党の意思通りに支配する。そのための「環境整備」のひとつが「文学」の廃止である。あるいは「論理国語」の創設である。「論理をいかに正確に読み取るか」とは、支配者が指示したことばをいかに忠実に、正確に理解し、行動するかということにつながる。学校のテストというのが「先生の求めている答え」を提出することで「いい成績」をおさめられるようになっている。自分で考えず先生の考えた通りに考え、それを答えにすると「いい成績」になる。「先生」ではなく「自民党(権力)」の求めている通りに理解し、実行する能力を育てることを「教育」と言っているにすぎない。
 「赤木ファイル」で問題になった森友学園について見てみればわかる。安倍の意図は、安倍が森友学園の土地取引にいっさい関与していないということを資料を通じて証明すること。その意図を正確に理解し、文言の削除、文書の廃棄を命じた佐川が優遇された。その操作に反対した職員は自殺に追い込まれた。「公益」「公の秩序」とは国民の税金を無駄遣いしない、私利私欲を肥やす権力者を許さないではなく、単に安倍の利益、安倍の支配体制を守るということである。そういう「権力に忠実な人間」を育てるための「環境整備」に努める、というのが改憲草案の狙いである。「努めなければなさらない」と、そういうことを国の「義務」にしている。
 私はたまたま「文学(ことば)」に関心があるから「文学」をテーマに私の考えを書いたが、音楽や美術、スポーツについても、きっと同じようなことが言えるはずである。「表現の不自由展」のような権力批判の視点を含んだものは「芸術ではない」という教育を進めれば、美術を通して現実を批判するという動きは消えてしまうだろう。折りッピック開催に反対するのは「反日」である(安倍)という教育が徹底すれば(なんといっても、学校では先生の求めている答えを書かないと、成績につながらない)、オリンピック反対という人間は「排除」されてしまうのである。
 「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできない」ということばは「美しい」。そして、こういう「美しいことば」には必ず「悪巧み」が隠されていると考えるべきである。憲法は何よりも、国民が、権力に対して「〇〇してはいけない」ということをつきつけるものである。「禁止事項」が憲法の本質である。
 その「禁止事項」に「国民の義務」として「教育」が含まれるのは、教育なしでは人間の、個人の未来が切り開けないからである。国の未来ではなく、あくまでも個人の未来なのだ。第22条で見てきたように、国民は外国に移住すること、国籍を離脱する自由を持っている。つまり、国民には「国の未来を切り開く」義務などないのだ。日本を見すてて、自分の可能性(未来)を切り開いていい、と憲法第22条は憲法26条に先立って言っている。憲法は先に書いてある条項の方が大切なのである。
 こういう読み方は、きっと「自民党の改憲草案の意図に反する」という形で排除されるだろう。異論を排除する、独裁を進めるというのが改憲草案の狙いであり、それを先取り実施するようにして現実の政策が進められている。
 繰り返し書いてしまうが、自民党の政策の多くは「改憲草案」の先取り実施である。憲法を改正しなくても独裁ができるように、着々と行動しているのが自民党なのである。

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