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第2章「1枚のメモ」-1

 3月15日の週末、並木は菅谷に書庫からタクシー事件の検証結果と同時間帯検問の捜査報告書を持ってくるよう指示した。そして並木自身も着衣見分の捜査報告書を探すため一緒に書庫へ向かった。 
 菅谷は書庫へ向かう途中、
「随分とピンポイントですけど、何か分かったんですか?」
 と並木に尋ねたが、
「何か分かったわけじゃないが、我々の仕事は事件の再捜査だからな」
 と明確には答えてもらえなかった。そして菅谷が目的の捜査記録を手にすると並木は、
「他の資料も確認したいから、先に戻っていいぞ。それと時間になったら上がるように言ってくれ」
 と先に戻るよう指示した。
 以前と同様に菅谷が出たのを確認した並木は内ゲバ事件記録を手に取ると、小山が話していた「唯一の生存者」が記載された捜査報告書を探した。ただ限られた関係者のみが知る話であれば、捜査報告書である司法書類に記載されているはずはない。そう思いながらも念のために確認した。
 子供に関しては会社の従業員から聴取した参考人供述調書の中に「男の子がひとりいた」と書かれているだけで、名前や年齢など人定が分かるようなことは一切書かれていなかった。
 しかし捜査記録の中に綴(つづ)られた戸籍謄本の写しには、1985年8月7日に高樹康之と陽子の間に長男「勇」が生まれたことが記録されていた。だが「勇」は事件後に戸籍上では養子に出され、捜査記録に綴られた戸籍の写しには鉛筆で「太陽の子」と書かれていた。これが小山のいう孤児院の名前だと思われた。そして戸籍では「長谷部隆夫」という人物と養子縁組し、これにより高樹康之の戸籍は閉鎖されていた。
 また被害者の父親である「高樹力」に関して本来であれば供述調書を作成するが、それを拒否したために捜査報告書が作成されていた。そこには供述人である力は公立中学校の元教員で、日教組の組合員であったことから捜査協力を拒否したと理由が書かれていた。そして力は特高警察に逮捕されたことも記載され、力の妻である澄子は当初供述調書の作成に協力する予定だったが、力の反対により供述調書が作成できなかったとも記載されていた。したがって勇のことを証言したのが会社関係者だった理由も納得できた。
 並木は捜査記録を捲りながら「現場に子供がいたという記載はないのか……」と思う一方で、勇を調べるのであれば「太陽の子」か「長谷部隆夫」を辿るしかないと感じていた。しかし長谷部隆夫と太陽の子が繫がる記載はなく、長谷部が施設を運営し養子縁組をしたというのは推測でしかなかった。
 並木は見ていた内ゲバ事件の捜査記録を書棚に戻すと、タクシー強殺事件の「着衣見分」の記録を手にして書庫の出口に向かおうとした時、書庫の扉が開き、小山が顔を出した。
「戻りが遅いので、また内ゲバの捜査記録でも見ているんじゃないかと思いまして……」
「今、戻ろうとしたところだ」
 並木は想定外の小山の行動に動揺することもなく、脇に抱えた捜査記録を見せた。タクシーの強殺事件に取り組む最中、内ゲバ事件に関心を持っていると思われるのは好ましくない。単に小山が話題のツールとして口にするのは問題ないが、特命係の責任者が担当事件に集中していないとなれば士気にも影響する。特に着任して間がない時期だけに行動は慎重にすべきだと並木は感じた。
 小山は並木の答えに黙って2度頷くと、
「今日、帰りにどうですか?」
 とコップ酒を飲むようなジェスチャーを見せ、そして断れないように、
「2人で話したいこともいろいろあるので、どうですか?」
 と誘った。この話を聞けばわざわざ訪ねて来た目的も理解でき、余計な心配も無用だった。
「分かった。軽く、行きますか」
 並木が敢えて誘いに応じたのは内ゲバ事件の話を聞くチャンスであると同時に、内ゲバ事件に執着していないことを伝えるチャンスでもあると考えたからだった。小山はご機嫌な表情を見せると並木と一緒に会議室に戻った。そして会議室に戻るとすでに浅見たちの姿はなかった。
「みんなは先に帰したんですよ」
 小山は自分の根回しの良さをアピールしながら、このことは2人だけの秘密であることを暗に示唆した。2人はすぐに帰り支度を整えて警察署を出ると、まだ正面玄関から数歩も歩いていないのに、
「どこでもいいですか?」
 と小山は尋ねた。だがその表情を見れば最初から店は決まっていて、警察署の近くにある小料理屋に案内された。その店はモルタル2階建ての築40年にはなろうという古い小料理屋で、入り口にはひらがなで「こまち」と書かれた深緑の暖簾がかけられていた。2本引きの引き戸を開けると70歳を超えた老夫婦2人が店を切り盛りし、カウンターが7席、4人掛けテーブルが2席の店内は一見客の姿はなかった。そんな昔ながらの小料理屋の中に入ると店主に、
「どうぞ」
 と声をかけられると、小山は厨房脇のドアを開けて並木を手招きした。
「ここは川口中央で事件があると必ずお世話になっていた店なんですよ」
 小山はそう言うと靴を脱ぎ2階の個室へと並木を案内した。2階には8畳一間の個室があり、そこには4人用の座卓に座椅子が2脚用意されていた。そしてすでに秋田名物のきりたんぽ鍋といぶりがっこが並べられ、2人が座椅子に座ったのを見計らったように生ビールと刺身の盛り合わせを店主が運んできた。
 小山の話では若かった頃、先輩、上司に連れられて通うようになり、そのうち小山が捜査主任官たちを案内するようになったという。昔は宴会だけでなく捜査員が寝泊まりしたほど、歴代の捜査一課員が立ち寄っていた。小山は料理が揃うまで間、そんな店と捜査第一課との関係を説明した。
 並木が警部補の時、2人はともに捜査第一課で勤務していたが係は違っていた。並木が殺人事件を担当していた時に小山は特命係にいた。そのため暑気払いや忘年会、異動期の歓送迎会で顔を合わせた程度で、面識はあるが膝を交えて話をしたことはなかった。
 生ビールで乾杯すると小山はビールジョッキをテーブルに置くや否や、
「補佐は有名な私立大学を出て、何でまた警察官になったんですか?」
と質問した。この質問は誰もが並木に感じている疑問であり、並木には単なる異能なエリート幹部では終わらない、表には出さない鋭さを誰もが感じていた。そしてベテラン刑事だからこそ感じる「勘」が特別な理由で警察官の道を選んだはずだと訴えていた。
 しかしこの手の質問に慣れていた並木はいつものように、
「子供の頃から推理小説が好きだった……からかな」
 と自問自答するかのような言い方で煙に巻いたが小山はそれを信じなかった。この答えは捜査第一課の誰もが耳にしているがそれを信じた者などひとりもいなかった。
 だが小山は導入の話を必要以上に掘り下げるつもりもなく、誘った目的は今後の捜査方針を聞くことだったので単刀直入に、
「補佐はタクシーの強殺事件で、何か感じたことでもあるんですか?」
 と身を乗り出しながら切り出した。並木はこの質問が係を代表したものなのか、小山個人の考えなのかを一瞬考えながらも質問の目的が何であるかを考えた。そして並木は、
「何かとは? みんな他の事件を捜査したいと聞いたんだが、それと関係しているんですか?」
 と自分の意見は口にせず、質問を質問で返す方法で小山の真意を探った。
「私は特命係になって5年を過ぎましたが、みんな名前だけの係だと思っています。それこそどの補佐も警視に昇任するためのステップくらいにしか思っていません。しかし私は補佐が適当に考えているとは思えないんです。何ていうか自分なりの考え方があるというか……」
 小山は自分が感じたままを口にした。説明としては上手く表現できていなかったが、何を伝えたいのかという気持ちは伝わってきた。
「そうですね。私は未解決事件になった事件に対して本当に捜査を尽くしたとは思っていないので、きちんと納得できる捜査をしたいと思っています。今言えるのは、そのくらいですね……」
 前任者たちの否定はしたくはなかったが、下手な噓は話を複雑にすると思い感じていたことを口にした。誰もが口にする言葉だったが「納得できる捜査」に感情が込められてこともあり、ベテラン刑事には心に響く言葉に聞こえた。
「なるほど。どれだけ役に立つか分かりませんが、どうぞよろしくお願いします」
 小山は姿勢を正して頭を下げると並木に右手を差し出した。並木はその右手を見ながら微笑むとゆくりと、そしてしっかりと握った。すると小山は何度も何度も嬉しそうに頷くと、
「実はですね……」
 と事件で考えている「手袋」について話し始めた。小山は犯行に「医療用ゴム手袋」が使用されたと考えていた。その根拠は腹部に刺さった包丁は腹を一文字に切り裂いていたが、これを可能にするにはゴム付きの軍手程度では返り血で手元が滑って不可能だという。事件当時医療用ゴム手袋は街中で目にすることはなく、テレビの小道具で入手できる人物は限られていた。つまり医療用ゴム手袋を入手できる人物こそ被疑者ではないかという話だった。
 小山は並木の前任者にも同じ話をしたがろくに話を聞いてもらえず、そのため屈辱的な感情を引きずっていた。確かに小山自身も具体的な根拠があるわけでもなく、単なる「刑事の勘」でしかなかった。だが並木が否定することなく話に耳を傾けたことを、小山は嬉しく至福の時間に感じていた。

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