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第1章(2つの事件)-4

「おはようございます。昨夜は帰らなかったのですか?」
 並木が朝洗面所で歯を磨いていると佐藤が出勤して来た。
「気が付いたら夜中だったから、つい面倒になってな」
「あまり無理しない方がいいですよ。先は長いんですから」
 そんな話をしていると、
「おはようございます」
 と𠮷良、菅谷が相次いで出勤した。
 𠮷良は身長160㎝のスラッとした唯一の女性警察官で、以前は警察本部生活安全部少年課にいた。気遣いのできる性格で責任感も強かった。そしてシュートカットの髪型によってさらに仕事のできる女性を感じさせた。
 また一緒に出勤してきた菅谷は身長170㎝のややぽっちゃりした物静かな性格ではあるが、好奇心は旺盛で物事には1つ1つじっくりと取り組むタイプだった。捜査員の中で独身なのは並木と𠮷良の2人で、他の捜査員は妻帯していた。
「へぇ、懐かしい記録を見ていますね」
 その後に出勤した小山は興味深そうに並木が読み終えた捜査記録を手にすると中を開いた。
「小山部長。この事件を担当していたそうですね」
「私が最初に担当したのが、この事件だったんですよ。だから今もはっきり覚えていますよ」
「その話は補佐と飲んだ時にでもゆっくりとやってください」
 そう言いながら最後に浅見が会議室に入って来た。しかし並木が、
「せっかくだ。どんな話なのか聞きたいじゃないか」
 というと小山は嬉しそうな表情で回想するように話を始めた。
「この事件では庶務係だったんですけどね。事件の『じ』の字も知らなかった時だから苦労しましたよ。この事件は謎が多くて『本当に内ゲバなのか』ってよく揉(も)めていました。特に記憶に残っているのは殺された夫婦の間には子供が一人いたんですが、ベッドの下に隠れるところがあってそこにいたんですよ。でも確か両親が殺されて、施設に預けたと思ったな」
「生存者がいたんですか?」
 小山の話に並木は驚いた表情で質問すると、その反応が嬉しかったのかさらに話を続けた。
「えぇ、男の子が。あの当時でしょ。確か、子供はお泊まり保育だったか忘れましたけど、その場にはいなかったことにしたんですよ。また襲われたら大変だとか何とかで。それにまだ子供だったので目撃者にもならないと判断したと思ったな。今じゃ、考えられない話ですけどね」
「そんなことがあったのか……」
「子供の話は本当に数人しか知らない話ですよ。それとその記録はコピーだから臨場感はないけど、写真を見た日は飯を食えなかったのを覚えていますよ。手足は操り人形みたいにバラバラの方向を向いていて、『人間の手足って、こんな風に曲がるものなのか』と思いましたね。それに顔は殴打されてぐちゃぐちゃで、脳みそが飛び出ていましたよ。私も30年以上刑事をやっていますけど、あんな酷い殺しの現場は見たことがないですね」
 そう言い終えると小山は腕を組んだ。小山はまだ話し足りない表情を見せたが、並木が自分の席に戻ると他の5人も自分の席に座った。並木は空気を一変させるかのようにタクシー強殺事件の話を始めた。
「最終電車を終えた赤羽駅のタクシー乗り場には多くの目撃者がいたが、聞込み捜査で得られた情報は殆どなかった。タクシー待ちをしていた大半は飲酒し、特に利用者同士でトラブルになるのを避けるために他人から目を反らしていた。また犯行当日にその場にいた全員を探し出すことが不可能だったのも事実だろう」
 浅見たちは内ゲバの捜査記録を読んでいた並木がタクシー強殺事件の概要をすらすらと、しかもポイントを抑えて説明したことに驚いた。そして殺害現場の説明ではホワイトボードに貼られた地図を使い、
「北西1300メートルにJR川口駅、北東1100メートルに埼玉高速鉄道川口元郷駅があるが、事件当時埼玉高速鉄道は開業していなかった。そして東側には国道122号線が南北に走り、南側は荒川が東西に流れている。そしてこの東京都との県境が現場だ」
 と事件概要を浅見たちにお復習(さら)いさせるように説明した。
 当時はコンビニの数も少なく、しかも24時間営業ではなかったために夜は人通りがなかった。事件の発生時間と同じ時間帯に行う「同帯検問」と呼ばれる検問を3日間実施したが、有力情報は得られていなかった。また多くの情報提供が行われたが目撃情報の大半は、
「送迎のために停まっていると思った」
 という内容で110番通報した中山という男性さえ、
「うるさいとは思って通報したが、実際に車が停まっているかは確認していなかった」
 と証言していた。
 またタクシーからは指紋が多数検出されすべての指紋を照合したが、容疑者の浮上には繋がらなかった。そして当時としては最先端の科学捜査といわれたDNAも試みたが、やはり結果は同じだった。唯一、有力な情報だったのは警察犬による追跡捜査だった。
 埼玉県警では当時、警察犬の出動は民間に委嘱していた。事件当日も警察犬を要請して犯行現場から被疑者の逃走経路を捜査した。警察犬は川口の社会福祉法人が運営している「川口市母子・父子福祉センター」を右に曲がり、環状線通りという主要道を越えてほぼ一直線に川口駅方向へと向かった。そして川口駅手前500メートルの場所にある川口神社の向かいの2階建て木造アパートまで行くとそこで警察犬は動かなくなった。
 当時の捜査ではこのアパートの前に放置された自転車に乗って逃走した可能性やアパートの住人に対する聞き込み捜査もしていた。しかしどちらの捜査も被疑者には結び付くことはなかった。そして「警察犬がアパートで追跡をやめた理由」は不明確のまま捜査は打ち切られていた。
 遺留品は犯行に使用された刃渡り20センチの文化包丁だけで指紋は残っていなかった。おそらく犯行時には手袋を使用していたと思われ、現場周辺からは血液が付着した足跡は発見されなかった。
 並木が説明を終えると浅見は、
「ところで署長室には顔を出したんですか?」
 と質問した。本部の捜査員が警察署を訪れると初日に署長へ挨拶する習慣がある。だが並木はこれが面倒で嫌いだった。署長室を訪れても階級であしらわれ、単に頭を下げるだけで意味がないので、刑事課長への挨拶で十分だと思っていた。しかし捜査第一課という肩書きを考えれば署長室を訪ねるのが筋だった。
「分かった。みんなのためにも面倒だとは言えないな。その前に現場を観たいんだが……」
 並木は誰にいうでもなく、空気を変えるように切り出した。すると、
「分かりました。まずは現場を観に行きますか」
 と小山が反応した。
 同じ階級の巡査部長は4人いたが小山が筆頭巡査部長、副が佐藤になっていた。これは年功序列や異動日で決めた便宜上のもので身分に差はないが、上司の案内ということで浅見と小山が同行することに決まった。
 最初に向かったのはタクシー運転手が殺害された犯行現場だった。当時の捜査報告書には工場街と記載されていたがすでにマンション街へと変わっていた。当時の川口は多くの鋳物工場で知られ、それは映画にもなった。しかし今では都内と隣接するベッドタウンとしてマンションが建ち並び、昔の面影はなくなっていた。
 小山が並木にタクシーが停まっていた位置や方向などを具体的に説明すると、
「ここで待っていてもらえるか?」
 と言って並木が車を降りたので浅見と小山も慌てて車を降りると、
「どうしたんですか?」
 と浅見が並木に声を掛けた。
「警察犬が追跡した経路を自分の足で歩いてみようと思ってな」
 並木はそう言うとひとりアパートに向かって歩き始めた。浅見たちはアパートを観に行くことは想定していたが歩いて行くとは思っていなかった。慌てた2人は浅見が並木に同行し、小山はアパートに車を回すことになった。「何をしているんですか?」
 黙って歩きながら時折、上を見たりする並木に浅見が声をかけると、
「街灯が気になってな」
 と言って街灯を指さした。並木はどこに街灯があるかを確認して夜間の照度をイメージしていた。
 事件現場からしばらく真っ直ぐ歩くと、最初に曲がった「川口市母子・父子福祉センター」で並木は立ち止まると来た道を振り返った。この建物は旧鋳物問屋「鍋平」別邸として四代目嶋崎平五郎が西洋文化の風情を取り入れて建築され、2001年10月に「再現することが容易でない建造物」として主屋などが登録有形文化財に指定されていた。その場に立ち止まった並木は、「なぜ北の方に進まず、遠回りになる南に逃げてから福祉センターを曲がったんだろうな。赤羽からだとタクシーは新荒川大橋から122号線を使うから、同じ道は避けたということなのか?」
 と独り言のように呟くと再び歩き始めた。そして今度は交通量の多い通称「環状線通り」を渡ると、
「この環状線通りを越えて警察犬が追ったということは、それだけ強い臭いだったということか……」
 とまたも独り言を呟いた。浅見は呟く度に何か言った方が良いのか、黙っているべきなのか気にしていたが、気が付けば警察犬が追跡をやめたアパートの前に到着していた。
 マンションに囲まれながらもアパートだけは当時の姿を残し、それはまるでアパートとその前にある川口神社だけが時代に取り残されているようだった。
 古い2階建ての木造アパートは道路に面して縦長に建てられ、正面に外階段が設置されていた。玄関は外階段を正面に見て左側にあり、アパートは道路から3メートル程度奥に建てられていた。手前のスペースはアパートが建てられた時の砂利のままで、プロパンガスの業者や来客用の駐車場として使われていた。広さとしては車が2台分停められる程度で、玄関側に自転車駐輪場が設けられていた。
「現場の雰囲気は確認できた。では会議室に戻るか」
 現場を見終えた並木は戻る車の後部座席でひとりこの事件の動機を考えていた。この事件ではタクシーの売上げ金5万6830円と釣り銭用の1万円を足した6万6830円が奪われたが、運転手の財布には手を付けていなかった。正確に言えば被疑者は手を付けていないのではなく、探しもしていなかった。  
 時間的余裕がなかった可能性もあるが、金銭目的で現場にある金を奪わない被疑者など聞いたことがない。それは被害者の「着衣見分」ではっきりと確認されている。
 わずかな金を得るために殺人も厭(いと)わない人間はいるが、この事件は金銭目的とは何かが違う気がしてならなかった。それはまるで被疑者が「捕まえられるなら捕まえてみろ」と挑発しているようでもあった。

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