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第2章「一枚のメモ」-2

 次の日の土曜の夜、並木は久しぶりに大学時代の友人たちと酒を交わしていた。ひとりは鈴木晴貴(36歳)で、もうひとりは大野安博(36歳)だった。鈴木は厚生労働省の官僚で高校時代からの友人であった。そして大野は警察庁に勤務する警察官僚で大学時代からの付き合いだった。2人とも東京大学法学部というエリートで大野とは鈴木の紹介で付き合いが始まった。
 並木と大野は同じ警察組織の人間だが、並木が警部なのに対して大野は神奈川県警察本部の外事課長も経験した警視正だった。警察官僚となると入庁した時点で巡査部長になり、警察学校を卒業時点で警部補になる。並木とは2階級の違いがあっても2人の間に階級はなかった。
「並木、現場はどうだ。お前が警察官僚にならなかったのがいまだに理解できないけどな」
 大野は近況を尋ねたが、並木は何も答えず黙って自分のジョッキを口に運んだ。
 3人は銀座7丁目にある「銀座ライオン」というビヤホールにいた。このビヤホールは日本で現存する最古のビヤホールで登録有形文化財に指定されている。「豊穣と収穫」をモチーフにした内装は欧州を感じさせ、料理もソーセージやビーフのフィレなどビールが進む料理が並んでいた。
 並木はジョッキに入ったビールを2口ほど喉に通した後、
「楽しいよ。お前たちは?」
 と切り返した。並木は誰よりも官僚に向いた狡猾的な物言いと才能を持っていると2人は感じていた。そのため無機質で無愛想な態度でも気にすることなく、そして付き合いも長いため「楽しいよ」という答えが文字通りの意味ではないことも理解していた。ただ狡猾的な物言いはするが嘘をいう男ではないことを考えると、何か別の意味があるのではないかと2人は感じていた。
 また鈴木は並木に会うといまだに2つの質問を必ず口にする。1つは、
「なぜ、官僚にならなかったのか」
 という質問であり、もう1つが、
「なぜ、医者にならなかったのか」
 という質問だった。
 並木はこの2つの質問に何十回、何百回と答えているが、鈴木は一度たりとも納得したことがなかった。したがって今では理由よりも親友である自分に隠し事をしているのが気に入らず質問を繰り返していた。特に医者に関しては他の者とは一歩踏み込んだ思い入れが鈴木にはあった。
 鈴木は並木の実家に出入りしていた極限られた友人のひとりだという自負があり、そして両親を知る親しい間柄だと思っていた。並木の父・陽一(68歳)は厳格な人である意味「蛙の子は蛙」という印象があった。しかし父親は町医者として地域住民から高い信頼を得ており、2人の間に壁や溝ができたことで医学の道を進まなかったとは思えなかった。
 さらに言えば医学的知識は「父親の医学書を読んだだけ」というレベルではなかった。鈴木は厚生労働省に入省して医薬品許認可事務を担当したが、得た知識を並木に質問しても明確に答える程だった。その知識は努力しなければ覚えられるものではなく単なる興味本意のレベルではなかった。それらを総合的に踏まえれば医師を目指さなかったことが気にならないはずがなかった。
 鈴木は並木と知り合ってから桁違いの異能者でありながらも何かを抱え、何かを隠し、そしてどこか鬱蒼としている人間だと感じていた。そんな異端な人格であっても惹かれるものを感じ、そして親友としてだけでなく別にも放ってはおけない理由があった。
「そう言えば、清花(さやか)が逢いたがっていたぞ。最近、逢ってないのか?」
 鈴木の話に割って入るように大野が身を乗り出て、
「並木、どうするんだ?」
 と冷やかした。並木は鈴木と大野の顔を交互に見た後、
「今日、いるなら顔を出すか……。どうだ、一緒に!」
 と半ば強引に2人を連れて店を出ると、3人は近くにあるショットバーへと場所を移した。
 このショットバーは銀座の中でも指折りの老舗店で、多くの文豪が訪れたことでも知られている。大正時代を思わせる木造の店内はカウンター席だけで10脚用意されている。照度は程よく落とされ、並木と鈴木が二次会で訪れる店は大概この店だった。
「兄貴、久しぶり。今日は並木さんも一緒なんだ」
 店内に入ると早い時間だったこともあって客は少なく、カウンター内にいた清花(24歳)が愛想良く歓迎した。清花は鈴木の妹で現在東京大学の大学院生だが、そのまま大学院に残ることが決まっていた。身長が155センチと小柄だが目がぱっちりした可愛い顔つきで、肩までのセミロングの髪型がさらに可愛らしさを引き立て若々しく感じさせた。
 清花がこのショットバーで働くようになったのは並木たちの影響で、清花の誕生祝いの二次会で並木と鈴木が連れてきたのがきっかけだった。並木と清花は12歳離れているが子供の頃に遊んでもらった兄のような存在は、今では憧れの想い人になっていた。そんな清花の気持ちを周囲はもちろん並木本人も知っていた。
 歳は離れていたが晴貴はもちろん、清花の両親も2人の交際を望んでいた。それ程までに周囲から期待されながらも並木が距離を詰めることはなかった。それは清花の気持ちを否定していたからではなく恋愛そのものに関心がなかったのが理由だった。
 だが恋愛に興味がないとしても兄として友人として黙っていられず、それは大野も同じで、
「どうするんだ?」
 と大野は並木の横顔を見ながら尋ねたが、並木は前を向いたまま黙ってロックグラスを口にした。
「このまま誰とも結婚しないということはないんだろう?」
 鈴木は目の前に清花がいたにもかかわらず、無言でいる並木に真意を問い質すように尋ねた。鈴木は高校時代から並木を知っているが今まで一度も浮いた話を耳にしたことがない。高校時代は大学受験に備えて盲目的に勉強しているのも理解できたが、大学、そして社会人になっても女性に関心を持たないことに病的な違和感さえ覚えたこともあった。
 だがLGBTでないことも知っていた。であるなら兄として妹の幸せを願い、友人として幸せになって欲しいと思う気持ちがあった。そして家族を持てば並木が持つ影もまた消えてなくなるような思いがしていた。そんな心配をよそに並木は清花と楽しげに談笑していた。そんな姿を目にすると鈴木は2人の幸せを願わずにはいられなかった。
「並木。1つ聞きたいんだが、実際に特命係で成果を上げるのは可能なのか?」
 清花と談笑していたが大野は並木に質問した。法律が施行されて12年が過ぎ、現実問題として成果がどの程度まで上がる可能性があるのか関心があった。特に並木のような優秀な捜査官から直接現場の声を聞ける機会はそうはない。すると並木は大野の話を待っていたかのように何も答えず上着の内ポケットに手を入れると、
「お前に頼みたいことがあってな」
 と1枚のメモを取り出して渡した。大野は四つ折りに折られた5㎝四方のメモをゆっくり開けると、
「何だ、これ?」
 と訝しそうに眉間にしわを寄せるとメモの趣旨を尋ねた。並木が人に頼み事をするなど聞いたことがなく、しかも事前にメモまで準備していたことなど後にも先にもない。誰もが頼むことはあっても頼まれることなどないため  大野は驚きを禁じ得なかった。メモには、
・ 1988年12月9日発生
・ 埼玉県川口市朝日町地内、内ゲバ事件
 と二段に横書きで書かれ、その下に少し間隔を空けて、
・ 現場に子供がいたのは事実か?
・ その子供は今、どこにいるのかを警察庁は把握しているのか?
 と、同じく2段で書かれていた。
 大野は警察庁に入省後、警備局の道を歩んでいた。警視庁を除く各道府県警レベルの警備部は衰退の一途を辿る組織だったが、警察庁警備局には「陰り」という文字はなかった。国家的安全対策を求められる部局は予算も警察庁内では高かった。その力を証明するように総理補佐官など政府主要ポストには今も多くの警備局出身者が抜擢されている。その警備局にいたため並木は、
「担当している事件じゃなんだが、未解決事件なんだ。何か分かればと思っているんだが、お願いできるか?」
 と内ゲバ事件に関する情報提供を依頼した。
「随分、古い事件だな。調べてはみるが、どの程度の資料が残っているか分からないからな……。ところで何でまた、こんな事件を調べているんだ?」
 大野は断るつもりはなかったが理由ははっきりとさせたかったものの並木は、
「急がないので、時間がある時に頼む」
 と明確に答えず右肩を軽く叩いた。だがそうは言われても納得ができるはずもなく、そんな不満な表情を読み取った並木は、
「今、川口中央という警察署の飯場に入っているんだが、そこで内ゲバ事件の記録を見つけたんだ。事件当時を知る部下から信じがたい話を聞いたので、それが本当なのかちょっと気になってな」
 と言葉に含みを持たせながら説明すると大野は予想通り、
「何だ、その『信じがたい話』というのは」
 と反応を示した。そんな大野に並木は敢えて説明はせずに、
「調べないと『信じられない話』は分からないと思う。だから頼むな」
 と言って微笑んだ。大野は事件概要を知らなければ理解できないと言われたら言葉もなく、黙ってメモをポケットに仕舞った。
 並木と大野のやり取りを横目で見ていた清花は話がひと段落したのを確認すると、
「次のお酒も同じものでいいですか?」
 と空気を変えるように並木にウィスキーを出した。鈴木も妹の気遣いをフォローするように、
「じゃあ。改めて乾杯するか」
 とグラスを手にした。
 並木はスプリングバンク蒸留所で造られた「ロングロウ」というモルトウィスキーを好んで飲んだ。ピートが効ききながらもクリーミーで、バニラカスタードが広がるような味はロックで飲むのに向いていた。並木はウィスキーの入ったグラスを手にしたが、鈴木と大野はウィスキーグラスの隣にあったチェキサーを手にしていた。2人は現役官僚が酒で失敗することがどれ程惨めな末路になるのを知っていた。そのため2人とも入省後は酔うほど酒を飲むことはなかった。
 一方並木は元々体質的に強いのか、自制ができているのか、酔って醜態(しゅうたい)を晒すことはなかった。2人は学生時代に何度か並木の醜態を見ようと酒を飲ませてみたが、先に潰れるのは決まって2人の方だった。それ以来鈴木も大野も並木と同じペースで酒を飲むのをやめていた。
 その後、鈴木と大野は互いの省庁の愚痴をしばらく零していたが大野が、
「そろそろ帰るわ」
 と席を立つと、並木も鈴木もそれに合わせて席を立った。すると清花は帰り支度をする並木に、
「明日、時間がありますか?」
 と声を掛けた。それを聞いていた鈴木と大野は並木を残して先に店を出ようとしたが、並木は2人に右手で「少し待て」というジェスチャーをすると、
「論文の件でしょ。良いですよ。連絡してください」
 と一方的に言うと2人と一緒に店を出た。そんな並木の振る舞いは傍目(はため)から見ても無愛想に思えたが、当事者の清花は手を振りながら笑顔で並木を見送っていた。そんな清花を見ていると兄として何もしてやれないことに鈴木は再び複雑な思いを感じていた。
 並木は店を出て2人に別れの挨拶をすると、
「大野。メモ、頼むな」
 と言ってひとり有楽町駅に向かって歩いて行った。
 清花のいう論文とはバイオ関連の研究課題で、並木が指導した論文は大学院内でも高い評価を受けていた。生物学の知識だけでなく、物を見る視点、発想力は担当教授も舌を巻くほどだった。
 研究課題である「死後における身体の腐敗進度と微生物の増殖環境」は並木も関心があり、既に警察では死後の経過時間をウジ虫の成長過程や室温、季節などの統計的数値で死亡推定時刻を割り出せている。そして必要に応じて解剖によっても特定するができる。したがって警察の犯罪捜査では目新しい分野ではないが、向学心の旺盛な並木は清花の論文指導を手伝っていた。

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