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第1章(2つの事件)-2 

第1章ー2
「この度の異動で捜査第一課での勤務を命じられました」
 埼玉県警察本部刑事部捜査第一課は県警本部7階の一画にあり、広さ200平米ほどの中に庶務係やデスクと呼ばれる連絡調整係の机などが並んでいる。捜査第一課は刑事部で最大の人員を擁(よう)する課ではあったが、捜査員の大半は各警察署で捜査に従事しているためここにいる者は事務方ばかりだった。
 2024年3月12日、4名の捜査幹部が春の定期異動で捜査第一課に着任した。異動者は捜査第一課長から辞令を受け取るため一列に課長の前に並んでいた。
「良く来たな。何年ぶりだ」
 捜査第一課課長・高野邦夫警視(57歳)はそう言って捜査第一課課長補佐・並木義光警部(36歳)の着任を歓迎した。
「2年ぶりですかね」
「並木は特命係の補佐だ。よろしく頼むな」
「分かりました」
 並木は2010年4月27日に刑事訴訟法改正に伴って発足した「コールドケース」と呼ばれる未解決事件を担当する特命捜査係の責任者を命じられた。
 並木は捜査第一課での勤務は4回目だった。巡査、巡査部長、警部補とすべての階級で捜査第一課に籍を置いていた。警察では昇任する度に同じ部署で勤務する「出戻り」と呼ばれる者は少なくないが、並木の場合は必要とされ請(こ)われて一課に戻ってきた優秀な捜査官だった。
辞令を受け取った並木はその場にいた捜査第一課次席・清野吉雄警視(50歳)に挨拶をすると清野は、
「並木補佐。引継ぎはしているとは思うが、事件ファイルにもう一度目を通しておいてくれ」
 と言いながら引継書を手渡した。県警では階級ではなく役職で呼ぶのが一般的で、本部と警察署では一部呼び方も異なるが本部では警部は補佐、警部補は係長または班長、巡査部長は部長と呼んでいる。また次席は課長の下の副課長ポストのことである。
「次席。どうぞよろしくお願いします」
「特命係は並木補佐以下6名の体制だ。班長は浅見で他に巡査部長が4人。午後一番に浅見が迎えに来ることになっている。それと今回本部に引っ張ったのは課長なので、あとで挨拶でもしておけよ」
 高野も清野も並木が警部補の時、捜査第一課で一緒に仕事をしていた。当時高野が次席で清野は補佐だったが、上司を知っていると気持ちが楽になるのは警察でも同じだった。
「分かりました。ところで早速ですが、川口中央の飯場(はんば)に顔を出そうと思っています。タクシーの強殺(強盗殺人)事件の捜査記録をもう少し詳しく見ておきたいと思いまして……」
「相変わらず、熱心だな」
 清野はそう言うと並木を見ながら頷いた。
飯場とは警察署に設置された捜査本部のことで、捜査本部には特別捜査本部と捜査本部の2種類あるがその違いは事件の重要度でこの捜査本部を縮小したものが飯場である。並木が言った強殺事件とは1995年に発生したタクシー運転手に対する強盗殺人事件のことで、時効撤廃が1995年4月以降の事件が対象だったことからこの強盗殺人事件はギリギリ適応された事件の1つだった。
 並木は「コールドケース」が発足してからこの担当になることを目標にしていた。被害者の無念を晴らすとか、未解決事件を解決したいという志もあるが、並木は少し違った視点で見ていた。
 近年の捜査は事件が発生すれば防犯カメラの捜査ばかりに人員を投入する「考えない捜査」になっているのを不満に感じていた。並木は事件の謎を解くこと、言い換えれば未解決事件に至った「解けなかった謎」を捜査する仕事に魅力を感じていた。1つの証拠、1つの情報を事件にはめ込むことで事件というパズルを完成させる頭を使う捜査を熱望していた。
 だが警部補までは特別捜査本部の捜査員として従事していたため、その機会に恵まれることはなかった。しかし今回の異動で担当になれただけでなく、その責任者として抜擢されたことは平俗な言い方だが喜びを感じられずにはいられなかった。
 並木は1985年に生まれた。父親は内科を専門とする小さな町医者だが、評判の良い病院で患者が途絶えることはなかった。そんな医者の一人息子は日本屈指の私立大学へ入学し、海外留学もしていた。しかし能力がありながらも医大へ進むことはなく、何故か埼玉県警の警察官になった。
 警察の仕事を望むのであれば国家Ⅰ種という警察官僚の道もあった。だが官僚の道は選ばず、また「警察の中の警察」と言われる警視庁という選択もしなかった。そんな職業観は周囲を驚かせ、誰もが埼玉県警を選んだ理由を尋ねたが、並木は軽く微笑むだけで理由を語ることはなかった。時に、
「推理小説が好きだから」
 と説明していた時期もあったが、それを信じる者はいなかった。
 少しニヒルな面もあるが酒を誘えば普通に応じる誰からも親しまれる人柄だった。身長が183㎝と大柄で背広を着て歩いていると読者モデルのようなキリッとした男前の容姿をしていたが、いまだに独身で女性との交際もなかった。だからと言って仕事一辺倒という人生観とは違っているどこか謎めいた摑所(つかみどころ)のないところが並木にはあった。
 並木は直属の部下である特命捜査係係長・浅見朋弥警部補(35歳)が迎えに来るまでの間、捜査第一課の片隅で引継書をパラパラと捲(めく)りながらこの事件をどう捜査するか思案していた。と言うのも未解決事件の発生当時と今とではいろいろな面で違っている。例えばタクシーの「防犯意識」を1つ取っても今では全タクシーの車内には防犯カメラが設置されている。しかし当時は街頭の防犯カメラさえ珍しかった時代で、車内に防犯カメラを設置しているようなタクシー会社は1社もなかった。
 更に言えば捜査すべき捜査をすべて終えている事件であり、改めて捜査すると言っても捜査すべき項目などあるはずもない。未解決事件が解決に至った事例を見ると、DNAなどの科学捜査の進歩に伴う新証拠の発見や服役中の受刑者による自供程度しかない。
 そして並木が担当するのは指名手配されている被疑者を追跡して逮捕するのではなく、被疑者すら判明していない事件である。難易度が高い捜査を求められるからこそ希望した部署ではあるが、そう簡単に結果を出せるところではないことも並木は知っていた。
「お待たせしました」
 浅見が邪魔にならないよう部屋の片隅に座っていた並木に声を掛けると、
「知っている人間が一緒で良かったよ」
 と並木が右手を差し出した。
「補佐。それは私のセリフですよ」
 すると浅見は嬉しそうに並木の右手を力強く握った。2人は一緒に特別捜査本部の飯場回りをしていた間柄で、2年前に浅見が巡査部長から警部補に昇任した時並木も警部補から警部に昇任して一緒に捜査第一課から異動した。したがって2年ぶりの再会だった。
 浅見は身長172㎝の痩せたスラッとした体格に日に焼けていたこともあって、サーファーのような雰囲気だった。そう感じさせるのは明るい性格が大きく関係し巡査部長の時はムードメーカーだったが、係長に昇任してすっかり雰囲気も落ち着いていた。
 浅見の案内で県警本部の正面玄関を出ると、特命捜査係主任・佐藤篤史巡査部長(35歳)が車で待機していた。佐藤は着任してから4年目を迎え、その間ずっと未解決事件の担当をしていた。この他に特命係は小山智巡査部長(58歳)、𠮷良なお美巡査部長(35歳)、菅谷浩介巡査部長(33歳)の3人がいるが、今年の異動で着任したのは菅谷だけで他の2人は既に5年目と3年目のベテランだった。
 佐藤は身長167センチの小柄の痩せ型で、性格は明るく今の係のムードメーカーを担っていた。
「補佐、ご無沙汰しています!」
「こちらこそ。特命班は初めてなので、迷惑を掛けると思うがよろしく頼む」
「みんな川口中央で待っていますが、みんな補佐と一緒に仕事ができるって喜んでいます」
「佐藤部長は本当に調子が良いな」
 そんな穏やかな会話で警察本部を出発した3人だったが、川口中央警察署へ向かう車内で今後の捜査方針を巡る話題に触れた時に空気は一変した。
「どうするかって、川口中央の強殺を捜査するんじゃないのか?」
「川口中央の事件は前任者がやっていたので、別の事件の方が捜査しやすいというか……。とりあえず補佐が気になった事件で良いのですが……」
 驚いた並木の反応に浅見は言葉を濁した。浅見としては今までの事件を引き続き捜査するよりも心機一転して、別の事件を捜査した方が士気も高まるのではないかというつもりで意見具申した。そこには今の飯場は半年過ぎても何の成果も上がらず、さらには上がる気配すらないという事情があった。それならば他の未解決事件を捜査した方が良いというのが浅見の提案だった。
 県内には未解決事件が20件以上もあり、その中でどの事件を捜査するかは並木が決められる。そして部下たちも解決の見込みのないタクシー強殺事件よりも少しでも可能性を感じられる事件の捜査を望んでいた。
「そうなのか……。俺はこの事件から捜査するつもりでいたし、今までみんなが捜査していたことを考えれば、このままの方が良いと思っていたんだが……」
 浅見も佐藤も反対こそしなかったが乗り気でないことは表情を見て分かった。その点を考慮すると浅見の意見は一考する必要があるように思えたが並木の腹は決まっていた。

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