見出し画像

根性論を否定してはいけない理由

こんにちは。ヤブハニです。
最近、今年はnoteをたくさん書こうと決意しました。
週1投稿目指して頑張ります。

今日は根性論について書いてみようと思います。

導入

根性論は否定されがち

根性論と聞くと、私たちの世代(20代後半~30代前半)からすると忌み嫌われるべきものという印象がある。

ひとたびtwitterを開けば根性論を否定するtweetはたくさんみつけることができる。

しかしながら、みんなが否定するものを肯定してみたくなる天邪鬼な私は、「根性論って本当にダメなんだっけ。」と良くもわからず新年早々感じてしまった。直近、自分の人生の中で根性論にかかわる何かがあったわけでないが、疑問に感じてしまった。

疑問に感じたら、考えを深めずにはいられない性分です。新年早々A4用紙10枚ほどにメモ書きをしました。結論から言うと、根性論=悪と頭ごなしに否定すべきものでもないのかなと個人的には感じました。

私がなぜそう思ったのかここに投稿しておきます。
今年は、根性で毎週note書くゾ・・・(*^^*)

そもそも根性論を定義しておく

まず、初めに根性論という抽象度が高い言葉を定義させてください。
goo辞書さんによると、以下の定義をされています。

強い精神力があれば、何事も成し遂げられるとする考え方

goo辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%A0%B9%E6%80%A7%E8%AB%96/

この定義をベースに、今回この記事で扱う根性論を再定義してみました。

強い精神力で、行動量を増やせば、どんな目的でも成し遂げられるとする考え方

変更のポイントは、以下の2点です。

  • 「行動量を増やせば」の追記(前半のリフレーズも含む)

  • 「何事も」→「どんな目的でも」への変更

「行動量を増やせば」を追記した理由は、精神力だけでは何も達成できないからです。結局目的の達成は、量×質のシンプルな掛け算でなされるはずです。

その意味で、精神力だけ強くても何も達成されません。
例えば、東大に受かりたい受験生で、どんな塾講師に罵倒されてもメンタルを病まない強靭な精神力を持っている人がいるとします。彼は、テストの点が低く塾講師に罵倒され続けました。罵倒にただ耐えて椅子に座っているだけの強い精神力がありました。しかし、テストの点をよくするために何も自分の行動を変えず、ただ座っていました。

これでは、東大には受かれないです。この強い精神をベースに勉強をたくさんすることが、量×質の量の変数を動かすことになり、結果につながります。

言いたいこととしては、精神が強いから行動量を増やすことができるという考えが、このnoteで扱う根性論のベースになっています。

「何事も」を「どんな目的でも」と変更した理由は、どんな物事をやるにしても必ず目的があるからという前提を置いているからです。目的がないところに、「何事」と呼ばれている何かすることは発生しません。

何か目的を達成するために、根性をベースに行動量を増やせばなんでもできると考えることが私の再定義した根性論です。

つまり、目的を達成するための1つの手段を指示する考え方と言う捉え方もできます。

根性論は否定されるべきでない3つの理由

この記事の通り、私は前章で定義した根性論を100%と悪とする必要はないと思っています。

誤解無きようにお伝えすると、根性で行動量を増やす目的達成の方法は、目的を達成するための手段の1つなので、他の手段の方が良かったり、他の手段と組み合わせることが重要だったりもします。

絶対的に、根性論が正しいと言いたいのではなく、根性論を自分の中で選択肢の1つとして持っておいても良いよねというのが私の言いたいことです。

根性論が、具体的に否定されるべきでないと考えている理由は3つあります。

  • 量を投下することで目的達成は可能だから

  • 質を上げる手段の1つになるから

  • 夢中に量をこなすこと自体が幸せに直結するから

それでは、1つずつ詳細を見ていきます。

量を投下することで目的達成は可能だから

何か目的を達成しようと人間は日々行動していると思います。そして、すべての目的は、達成するために、日々何かしらの行動を取ることが必要です。つまり、行動が目的を達成できるかどうかを規定します。

そして、行動を更に因数分解すると、「量×質」というシンプルな掛け算に落とし込むことができます。

ここから導き出せることは、目的を達成するためには量か質どちらかを増やすことしかできないということです。

つまり、このうちの量にフォーカスを当てた根性論は、必ずしも「間違っている」と言い切れません。

一方で、世の中では、効率的に、質の高い行動をしていくことを是とする風潮があります。しかしながら、質が伴わないのであれば、量でカバーするというのは目的達成のための行動の因子を考えた時、至極当然のことなのです。

一番よくないことは目的を達成できないことです。そのため、質が伴わないうちに、量でカバーすることを指示する根性論は論理で考えた際、必ずしも否定されるべきことではないです。

質を上げる手段の1つになるから

目的を達成するには、行動が必要でその行動は「量×質」という二つの因子に分解されるという話をこの前段でしました。そして前段では、量にフォーカスを当てて、量を上げようと言っている根性論って悪くないよねと説明をしました。

それでは、一方で質については、どのように磨き込んでいくのでしょうか。
結論、質は、量をこなした結果として高まっていくものではないかと考えています。正確にいうと、質を高めるための有力な手段の1つが量を増やすことではないかなと思います。

質を上げようとするとき、様々なコツがインターネットに転がっています。例えば、プレゼン資料の作成を例にとってみましょう。

  • 1スライド1メッセージ

  • 行間は空ける

  • 文字ばかりのスライドは作らない

  • グルーピングする・・・・

上記のような質を上げるためのコツが色々出てきます。それでは、調べて実行しようとなったときに、いきなり完璧に、1スライド1メッセージでスライドが作れますでしょうか。答えは、Noです。

得たコツを、何度も試して自分のものにしていくことで質が高まっていきます。つまり、同じ成果を出そうと思ったとき、に時間軸に応じて質の量が増えていきます。

結局、初めは量をこなすことでしか物事はうまく行かないのかもしれません。

夢中に量をこなすこと自体が幸せに直結するから

少し話の毛色が変わります。今やっていることに夢中になっているとき、人は幸せですよね。どういう状態か補足すると、何をすべきかが明確で、ただその物事が楽しくて時間を注ぎ込んでいる状態です。

それでは、一方で辛い時はどんな時でしょうか。目の前の今何すべきかもわからないまたは、やっていること自体がつまらない時ですよね。

何が言いたいかと言うと、明確な心から達成したい目的があり、そのための莫大な行動量を投下しているとき、人は幸せなのです。

やるべきことが明確で、そのことに好きなだけ時間が使えることはこの上ない幸せです。今を生きるということです。仏教的な思想ですね。

まとめ


根性論=悪ではないことが少しでも伝わったら嬉しいです。根性論と言う言葉に前提を置き、解釈すると必ずしも悪いことではないはずです。

いつも根性に頼るのは非効率的ですが、根性も目的達成のための手段の1つとして持っておくのは人生を豊かにするために良いことだと思います。

何でも頭ごなしに否定するのは良くないですね。

今年は、細々とどんどん書いていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?