見出し画像

心を殺した若い日の記憶

雪崩れ込むようにYABOU劇場始めちゃったけど、
本当に私の願いが叶うならすごいと思う。
今まで書いたことは全部本当に自分で感じて考えてきたことだから。

物心ついた頃にはすでに他人の目を気にする子だったから、リカちゃんもリカちゃんハウスも買ってもらったのに上手く遊べなかった。
自分がそれで遊びたいかどうかも分からなかった。
子供はこういうもので遊ぶものかしら。
こういうものを欲しいと言えば喜ばれるかな。
自分の意見が重要だとは思わなかったから、平気で蓋をすることもできたし、すっかり蓋をしちゃう方が楽だったんだよね。
自分のしたいことのために頭を使うって事も放棄して、体裁を保てているかどうかだけが気になってた幼少期。んで22歳の時やっと気がついた。
何もかも頭で制御して思い通りにしてちゃダメなんだって。
それからは自分が何を感じて何を思うのか、それを知るところから始めました。
コレが好きって言ってるのが本当にそうなのか、体裁を保つために言ってるだけなのかすっかり分かんなくなってたから。

おかげで他人の言葉の真意もすっかりよく見えるようになった。
体裁は自分のしたいことのために上手く使うもんだってこともわかった。体裁が気になるっていうのも悪くないと思う。盾にも矛にもなる便利な感覚だもん。 

感じる心が曇ってたら表現するものも曇るのは当たり前なんだよ。
私のドール服はよく作り込まれてると思う。これは、作り込まれているものが素晴らしいってことじゃなくてさ。
私自身が、心の底から遊びたい、美しい、癒されるって感じるためにはここまで作り込まなきゃ足りないの。
例えば私のドール服より縫製があまいものがあったとしても、作る本人が心の底から遊んで楽しいと思えばそれは素晴らしい品物なの。
何より大切なのは曇りのない気持ちだと思う。
気持ちを要にしたものづくりが一番尊いと思う。
精巧さは正義じゃないし、作り込めば良いって話でもない。
私は、"美しい"とか"癒し"とかそういう気持ちが心地よいけど、人によってはおぞましさが好きな人だっているし、滑稽さが好きな人だっている。そこに差は無い。
ただ好きな感覚をまっすぐ表現して、創ることが当たり前になったらいいな。
この結果として売れるものができて、材料費が稼げて、また作れる。
愛着の持てるものを、自分の気持ちに嘘のないものを作ることが当たり前の世の中になって、そういう品物が100年以上大切にされて、100年後の人たちが気圧されるくらいのものが沢山残せたら、ものづくりをする者としても、人間としても悔いがないだろうな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?