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装甲娘戦機覚え書き。

↓2023年5月文学フリマにて頒布の『ゴエティア』中の文章を転載。↓

本稿は、アニメーション作品『装甲娘戦機』のネタバレを含む感想記事になるので注意されたし。

『装甲娘戦機』は2021年にstudio A-CATにより制作されたアニメ作品である。
レベルファイブ製作『ダンボール戦機』のメディアミックス企画のひとつであるブラウザゲーム『装甲娘戦機』。
そのアニメ化である本作は、原作ファンからの評判はけして芳しくない。
本来ならばブラウザゲームの宣伝のために制作されていたところを、原作ゲームのリニューアルのためのサービス終了などの事情によりその必要がなくなった。原作ゲームのファンではなく"アニメファン"向けにリブートされた作品であるため、様々な批判を受けることになった。
本作は"アニメファン"の中でもロボットアニメファンがメインで想定されている。
監督は『銀河機攻隊マジェスティックプリンス』の元永慶太郎。そしてシリーズ構成は『ガンダムUC』『閃光のハサウェイ』のむとうやすゆきだ。
インターネット上のインタビュー記事( https://gigazine.net/news/20210105-soukou-musume-senki-interview/ )を読むと、ロボアニメの中でもガンダムシリーズを強く意識していることがわかる。
同時期に『閃光のハサウェイ』の作業をしていたむとうが本作の脚本を担当しているのはなんとも数奇な運命だ。

コンセプトが制作中に半ば瓦解したこともあり、本作は現場のアニメスタッフのアイデア主導で制作された作品だが、その中でも脚本の個性は特筆すべき点だ。
テレビアニメの脚本は本来ならば制作の中で何度も直しを重ねて整合性を高めていくものだが、監督の元永は「本来、ライターが最初に上げてきたものが一番面白いんだよ」と発言し、物語についてむとうに一任している。
むとうやすゆきという作家は『閃光のハサウェイ』をもって、いよいよ"ガンダムの脚本家"という地位を確かなものにしているが、氏の個性が何よりも出ている作品として『ローリング☆ガールズ』の存在を抜きには語れないだろう。
『装甲娘戦機』は前述の通りガンダムを意識しているが、少女たちの旅を主題にした会話劇が基本の構成である。そのため『ローリング☆ガールズ』の延長線上にあることは疑いようがない。
独特なゆるい雰囲気、日本列島を西へと移動していく展開など『ローリング☆ガールズ』との共通点は多い。
むとうをガンダムシリーズでしか知らないアニメファンは多数存在するだろうが、むとうの本懐はガンダム的小難しさではなく、軽妙で心地よい会話劇、そして特別ではなく、平凡な だが大切な言葉がすっと胸の中に沁みる、素直さと優しさにある。
その片鱗は『ガンダムUC』にも色濃く出ている。作中でのセリフ「"それでも"と言い続けろ」の印象強さは、原作付きとはいえ、むとうの愚直とまで言える素直さがなければ到達し得ない領域だ。
本稿ではむとうやすゆきの1ファンとして、『ローリング☆ガールズ』の後継作であること、そしてむとう流の『ガンダム」へのアンサーソングであることの、2つの読みを主題として語っていく。

1.弾丸は命中してはいけない

「昔さ、ニュータイプって、モビルスーツに関してはスペシャリストがいたよな。そういうのって大概個人的には不幸だったんだよな?」
『機動戦士ガンダムF91』におけるビルギット・ピリヨの発言である。
巷で数多のニュータイプ論が流れている現在、私はこのセリフの重要さを再評価している。
"最初に変わった1人"はけして幸福な人物でなく、多くの場合ただ弾かれて孤立するだけである。
話の趣旨とは少しズレるが、河森正治監督作『地球少女アルジュナ』中でその旨が語られている様は印象的なので是非チェックしてみてほしい。
ニュータイプとされていた人物たちの個人的な不幸というのがそれに則ったものとは限らないことも承知の上ではあるが。
私は、彼らの個人的な不幸というものは「ガンダムを操縦できてしまった」そのことに尽きると思っている。
戦争という世界観上、ロボアニメという設定上、おもちゃを売らなければいけなかったメーカーの都合上、彼らはーーニュータイプとは限らない、ほぼすべてのロボアニメの主人公たちはーー巨大なヒトガタを操縦する・・・操縦できてしまう。
誰かがやらなければいけないことがあり、その誰かになってしまう。
戦争を題材にしたロボットアニメは全てその悲劇から物語が始まり、人を守り人に愛されるという制作者から与えられた祝福と、その前段階のために世界の犠牲になり続ける呪いの中間で揺れながら進んでいく。
これはガンダムを基準とした全てのロボアニメに存在する悲劇だ。そしてその悲劇を生み出しているのは私たち受け手に他ならない。誰かが求めなければ彼らが戦い始めることはないのだから。『装甲娘戦機』はその悲劇に対して、真っ向から立ち向かっている。

主人公であるリコは、チーム内で狙撃手の役割を務めるキャラクターだ。軍事的な考証にも力が入っている本作では、リコが所属するジャガーノート小隊が軍全体の中でどのような役割を持っているか、またキャラクターたちの小隊内の配置も設定されている。
作中でジャガーノート小隊はいくつもの作戦を立案・実行していくが、その中でもリコの活躍は際立っている。
良い意味ではなく・・・悪い意味で。
リコの特徴は、命中させるべき弾丸を外し続けることだ。
『装甲娘戦機』の第1話冒頭で、リコは現実世界から異世界に転移する。見知らぬ世界で、突然装甲娘としての役割を課されたリコは困惑しながら銃を手にし、外敵に抗っていく。
だが、リコが放った弾丸は外れ、1話では最後までそれを命中させることなく終わってしまう。
冒頭だけではなく、中盤までリコは幾度も重要な場面で狙撃に失敗し仲間を危険に晒してしまう。ロボットアニメに慣れた視聴者であれば、ストーリー上命中するべきである弾丸が外れ続ける違和感に、困惑と苛立ちを感じずにはいられないだろう。
しかしその困惑と苛立ちは、受け手の傲慢であると言わざるを得ない。
もし自分がリコと同じ状況になったとして、狙撃を成功させられるだろうか。否である。
(ごく浅い見方として)ガンダムの主人公のような人間がニュータイプなのだとしたら、リコは確実にニュータイプではなく 私たちと同じ平凡な人間だ。
だからこそ、ロボットアニメの主人公としては言葉通りの「ニュータイプ」なのだ。
ジャガーノート小隊では、リコ以外の全員が役割を充分にこなしている。全員がリコと同じように異世界から転移してきて突然装甲娘戦機としての役割を課されたにも関わらずだ。
作中では装甲娘戦機としての役割に適応できなかったり、仲間に恵まれなかったせいで殉職する人物の存在が示唆されている。
気の抜けた会話劇で誤魔化されてはいるが、世界観については「苛烈」のひとことだ。正体不明の敵"ミメシス"を筆頭に、異世界からきた女子高生を戦力として当てにしている現地の軍隊や、ジリ貧極まりないその戦況。
不幸にもこの世界に転移してきてしまった装甲娘は誰もがアムロ・レイになることを強いられている。
その中で、リコだけは適応せず、平凡な高校生で在り続ける。そのリコに触発されて、小隊のメンバーが徐々に自分たちがただの高校生だったことを思い出していくというところが装甲娘戦機の物語の中核部分になっている。
前述した通り、ニュータイプの不幸がガンダムを操縦できてしまったことにあるのならば、『装甲娘戦機』はその呪いから彼女たちを解放することに全力を注いでいる。
兵隊だった少女たちが、自分たちはただの子供であったことを思い出し、旅の目的を「作戦」から「修学旅行」へとシフトしていくその様は、むとうの持つ優しさが最大限に発揮されている。
『装甲娘戦機』はガンダムを含む全てのロボットアニメの主人公たちへ向けた、癒しの歌だ。
この物語を『閃光のハサウェイ』と同時期にむとうが書いていたという事実だけで感慨深い。
むとうはただの「ガンダム作家」ではない。20年代現在でも「それでも」と言い続ける、新しいガンダム作家なのだ。

「命がけの修学旅行」というコンセプトがフルに発揮された第10話『この世界のために?』の内容は、本稿で語ることはよしておく。
既に視聴されている読者ならわかると思うが、この旅は誰かが語った言葉を通じて読んでも意味はない。
必ず自らの目で確かめなければならない「必見」のアニメーション作品だ。

2.旅のつづき

『ローリング☆ガールズ』は、物語の主役になれない人間=モブを主役に据えた作品である。敵を倒すような力を持たない人物がどのように戦っていくかを描いたアニメだ。『装甲娘戦機』とは対照的である。
『装甲娘戦機』作中で装甲娘は唯一ミメシスに対する有効的な戦力であり、他の戦う力を持たない全ての人間たちが自らの生存を装甲娘たちに委ねている。
その役割を持つジャガーノート小隊は、戦場での生き方に染まりきらないリコとの関わりの中で自分が兵隊ではなく、ただの高校生であったことを思い出す。
『ローリング☆ガールズ』とは逆の、しかし対照的だからこそ近いテーマを取り扱っていることがわかる。
『ローリング☆ガールズ』の最終回の印象的なセリフで「ノンスケは、私の抹茶グリーンだったよ」というものがある。
抹茶グリーンは『ローリング☆ガールズ』の中でも主人公のノンスケ(望未)の憧れるヒーロー像そのものと言えるキャラクターだ。
言葉通りにノンスケが抹茶グリーンのように大きな力を手にし、人々を守るヒーローになったかと言うと、そうではない。
ノンスケはモブのままで、誰と戦うこともなく 必死に自分のできることを探して実行していく。
ただの人間としての頑張りを最初から最後まで続けたノンスケは、最終的には誰かにとっての抹茶グリーン=ヒーローになることができたのだ。
むとうの中で、ヒーローをヒーローたらしめているのは大きな力や戦った事実ではなく、ただ一人の人間として、できる限り頑張ろうとするその心だということがわかる。
『ローリング☆ガールズ』のモサと同じ立場とも言えるジャガーノート小隊が、最後には装甲娘に課せられる呪いじみた責任だけでなく人間としての自分の心を思い出し、それでも世界を救うために戦うことを選択する。
『装甲娘戦機』の結論は『ローリング☆ガールズ』とは真逆のようでいて実は同じ、人間としての心の在り方を重視する結末になっている。
違う人物達の違う道のりの旅ではあるが、むとうにとっては『ローリング☆ガールズ』から変わらず、人としての心を求道する旅のつづきなのだろう。
2作の間にむとうがシリーズ構成を担当した『ガンダムビルドダイバーズRe:RISE』もその道中の作品だ。
『装甲娘戦機』のリコ、そして『ローリング☆ガールズ』のモブ達を筆頭に、むとうの作品では無力さを強調されたキャラクターが主役メンバーの中にいることが多い。
『ビルドダイバーズRe:RISE』におけるジャスティスナイトことカザミもその系譜のキャラクターで、作中で何度も空回り仲間に迷惑をかける。
またむとうが過去にシリーズ構成を務めた『PERSONA -trinity soul-』に登場する、榊葉拓朗も「うまく戦うことができない」という設定のキャラクターだ。
むとうが書くこのようなキャラクターは、失敗したり 他人に迷惑をかけてしまう描写がしっかりと描かれている。
拓朗がペルソナを発現するも、コントロールできずに何度も戦闘中に戦線離脱してしまう展開や、『ビルドダイバーズRe:RISE』でカザミの発言が間接的な原因となり、ラスボスであるアルスにより都市が一つ消滅させられてしまう展開は印象的だ。
しかし、むとうの書くキャラクターたちはけしてここでは終わらない。
カザミも拓朗も、自分の欠点に気づき 向き合うことによって最後にはちゃんと仲間の力になる。それが先陣を切って敵を薙ぎ倒していくような、自分の理想通りの活躍ではなかったとしても、自分にできることを確かにつかみ、実践していくのだ。
これは、戦いの中で人が機能的にならざるを得ないという結論ではなく、自分という存在を受け入れた時、人は強くなれるということなのだと私は考えている。

3.おわりに

本稿において、さまざまな作品のタイトルを出し、比較しながら語ったが『装甲娘戦機』が何よりもひとつの作品として素晴らしいアイデアや製作陣の想いが詰まった傑作であることだけは宣言しておく。
しかしアムロ・レイやその他のニュータイプ、いままでに存在した戦いを避けることができなかった全てのキャラクターたちに対する原罪が私たちアニメファンにあることも忘れてはならない。
罪の意識を持って解決することは一つもないかもしれない。だけれど、私たちは想い続けることを辞めてはいけないだろう。
あらゆる人が抱いてきた祈りは、たかがおもちゃの販促アニメにも宿っている。
私たちもそれを感じたならば 友達や、次の世代へと伝えていく。
手元にあるものがボロボロのみすぼらしいプラモデルだとしてもこれでいいんだと、肯定して抱きしめられるように。
次の人たちの、次の旅のために。

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