どうか、幸せに

「家族って、そんなに大事?」
わたしは特に意味もなく、ポツリと呟いた。意味は当然ある。泣き腫らした目を冷やして、すこしだけ落ち着いた脳で考えていた。
「答え求めてる?それ。」
彼は小さく眉を潜めると、深い深いため息をつく。私の背中に載っている手のひらが月明かりのようにぼんやりと、私を照らしている。一筋の光を追って、わたしは目を細めた?
「答えがあるなら、聞きたいかなあ。」
 もうとっくに柔らかい保冷剤を潰すように押し当てる。冷たくない風が吹き込んで、わたしはいつの間にか夏になだれ込んでいた。家族はわたしにとって足枷でしかなくて、凍った保冷剤を溶かすように、自分の体温で、自分のなかで解決しなくてはいけない。周りの保冷剤はとっくに溶けていて、結露すらないというのに。新しい保冷剤を冷やしているのに。わたしはいつまで経っても、溶けない保冷剤をずっと握りしめている。指先は凍って、ときどき霜焼けが痛む。
「大事かどうかなんて、自分が決めることだろ。」
「周りが決めてるじゃない。家族は大事にしましょう、って。」
「それはお前が逃げてるからだろ。」
「難しいこと言ってるぅ。」
「言ってねえよ。バァカ。」
バツが悪そうに頭を搔くと、彼はずるずると体を倒し、私に寄りかかった。
「俺も、家族なんてわかんねえよ。家族ができてるとこに産まれたんだし。」
そうね、とわたしは笑う。気が付けば周りは家族で、わたしはそこにいた。たまたまそこに生まれて、たまたまそこで育った。全部が偶然なのに、それらの偶然は、わたしを痛みつけては飼い慣らし、思いついたように、わたしを怖がらせる。
「なんで、逃げようとしないんだよ。」
彼はわたしの腰をぐっと掴んで、寄せた。すん、と、鼻をすする。
「期待してるんだよ、まだ。」
ようやく軽くなってきた瞼を、ぱちぱちと動かす。太陽が登る直前。空は彼のため息のように深く、机に散らばった空き缶は、それぞれが、まだ二口ずつくらい残っている。
「ほんの少しだけ……借金の為に結婚しなくていいとか、私を愛してくれるとか、普通の家族になるかもしれないとか、そういうことを、わたしはまだずっと、ずっと期待してる。」
「なんでそんなこと……」
「そんなことなんて、言わないで。」
引きつった顔で、わたしは彼を見る。うまく笑えていない、きっと、下手くそな笑顔で彼は呆れる。そう思いながらも、ニセモノの笑顔を浮かべるのを、止められない。わたしは家族に期待しているのと同時に、他人に、ひどく絶望している。
「好きな人が傷ついてるのは、自分が傷つくのより、辛い。」 
彼は呆れも、怒りもせず本当に悲しそうに言った。八の字になった眉の上には、ものが乗りそうだ。
「君の眉毛は、かわいいね。」
「……あのなぁ、」
「わたしね、君と出会って“愛おしい”を知ったの。可愛いって、愛おしいって意味なの。愛情なの。初めて知った。」
ゆっくりと、宥めるように喋る。残り続ける痣も、火傷も、本物の愛じゃないと知った。それは間違えている。
「それを知れただけで良かったわ。観葉植物とか、空気清浄機とか、そういうものを、君にならきちんと用意したいと思う。それがきっと、愛だよね。」
 冷たい指先で彼のくるくるの髪を撫でる。彼はされるがままに、自分が殴られたあとのような顔をして、俯いた。
「ねえ、来世はさ、観葉植物の飾ってある家で幸せに暮らそうね。」
 夕焼けのような朝日を見ながら、わたしは呟いた。
「今世じゃダメなの。」
「無理ね、わたし離婚できないもん。」
借金返して貰ったし、と、笑って言う。彼は少し俯いて、そうか、と呟く。
「この部屋に観葉植物を置く。」
「……へえ。」
「それで、お前はここに来ればいいよ。浮気じゃなくて、もうひとつの家族ってことで。」
「そうするわ。」
わたしは子どもっぽい彼の頬に触れる。ずぶり、ずぶりと彼の沼に沈んでいく音がする。保冷剤の結露で、わたしの指はきらきらと濡れて光っていた。彼はその反射で光って、美しかった。観葉植物があれば、わたしたちは幸せになると信じている。倒すひとも、蹴る人もいない。ただ、結露ほどの水を与え、葉を撫でる人がいる。そんな暮らしに、わたしは、夢を見ていた。彼の頬は、濡れていた。家族じゃなくてもいいから、彼に幸せになって欲しい。そう言って皆、家族になろうとするのだろう。だったらそれは、とても大事なものだと、わたしは思うのだった。

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