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ジャック・ベッケル『モンパルナスの灯』――夢見るクローズ・アップ

1. 誰を切り返すか?

ジャック・ベッケル監督作『モンパルナスの灯』(1958)は冒頭、字幕による画家モディリアーニの簡単な伝記的紹介を挟んで、ジェラール・フィリップ演じるモディリアーニがカフェで男の肖像画を描くシーンで幕を開ける。より正確に言えば、カメラは初め緊張した様子のモデルの男の顔を捉え、続いて緩やかにパンしながら隣の男(妙なもんだな、とでも言いたげな顔つきの)を、続いて他の客たち、モディリアーニの連れである画商ズボロフスキー(ジェラール・セティ)と順に視界におさめてゆき、最後にモディリアーニが初めの男の肖像画を描いている様を捉える。続いて再びモデルの男の顔のショット、そしてモディリアーニの顔のクローズ・アップ。この冒頭のシーンで確認しておきたいのは、肖像画を描くという行為が顔の切り返しという形で表象されていることだ。これには注釈が必要だろう(ここでの演出そのものが取り立てて独創的というわけではない)。作中後半でなぜ風景画を描かないのか、と問われたモディリアーニはゴッホの言葉を引きながら、人間には教会にはない何かがあるからだ、と答える。絵画とは苦しみから生まれる仕事だ、とも。作中人物が肖像画について語るこの言葉を、顔のクローズ・アップという演出の理解に当てはめてみたい――それは「教会にはない何か」を生成する技法であり、その生成には「苦しみ」が深く関わっている。それ自体として驚くべきものではない冒頭の演出はしかし、単なる人物紹介として以上にこのテーマを予告する機能を果たしている。それでは、「何か」とは何か?
ジャック・ベッケル監督の映画において、顔が特異な情念の舞台として立ち上がる瞬間。蓮實重彦ならそれを、「平手打ち」という一語に結びつけるだろう。以下は『肉体の冠』の解説文(『映画狂人、神出鬼没』収録)からの抜粋。

『現金に手を出すな』の映画的な瞬間が、最後の自動車の運転席からの機関銃での銃撃戦より、ジャン・ギャバンがジャンヌ・モローを平手打ちする瞬間に生めかしく露呈されていたように、ここでもベッケルの活劇性は、クロード・ドーファンが不意に手下を平手打ちする一瞬に画面に炸裂する。

本作においてもまた、見事な平手打ちの場面が存在する。冒頭のカフェの場面でモディリアーニは描き上げた肖像画をモデルの男に渡すが、おそらくは似顔絵を期待していたのだろう男は絵を見て渋面をし、それを突き返す。そのことによって、また何より男がそれでも絵を描いてもらった代金はちゃんと払うと主張し、一文無しであるがゆえに彼のお情けにすがって注文の代金を払ってもらわざるを得ないことによって、自尊心を傷つけられたモディリアーニは店を出る(後述するが、本作が「理解されない芸術家」という使い古されたテーマを描くにあたって独特な点の一つは、彼が冷たいあしらいを受けることはほとんどない点にある。「芸術」を理解しない周囲の人々も彼らなりに親切にしてくれる。そしてそのことこそが、プライドの高いモディリアーニを何よりも傷つける)。そこで彼は、偶然愛人であるベアトリス(リリー・パルマ―)と出会い、失意のまま彼女と臥所を共にし、酒を飲む。平手打ちがなされるのはその時だ――あなたが死んでも残念がるのはツケが溜まったカフェのボーイくらいでしょうね、とベアトリスがからかうように嫌味を言うと、続く眉をひそめたモディリアーニのクローズ・アップになる。それに対しておかしそうににやけてみせたベアトリスのクローズ・アップ。殴らないの?すると続くモディリアーニのショットでは、彼がいきなり、勢いをつけて思い切り彼女の顔をひっぱたく。彼女は反射的に身を守るように手を挙げ、吹っ飛びそうにさえなるが、すぐに立ち直るとほとんどマゾヒスティックにやや顎を上げて挑発してみせる。もう一度!今度はためらいもなしに、より強い一発。よろめきながらベアトリスはくずおれる――この関係が二人の間では普通なのだろうか、情交後のしどけないガウン姿でほとんど死体のように横たわる彼女(と、呆気にとられる観客!)をよそに、モディリアーニは上着をつかむと部屋を立ち去る。従ってここでは、愛人同士の(幾分ゆがんだ)感情関係が顔の切り返しによって立ち上がっているのだと言える。ここで二つの顔をつなぎとめているのは、画家とモデルという関係ではなく強烈な平手打ちである。
冒頭のカフェでの画家とモデルという関係では、前者が表現しようとしたものは後者に理解されないまま終わった。そこでの切り返しは実のところ、単なる一方通行の関係をしか表現していないのだ。続く愛人同士の関係では、叩かれるのを望む女の顔を男が叩く、という点でひとまず相互の欲望は満たされているようだ。しかしそれは、決してこの関係が生産的であることを意味しない――暴力は結局のところ一方的なものであり、その鮮烈さはモディリアーニの内面の空虚の裏返しと言うべきだ。彼の内に立ち上がりかけた「苦しみ」はそこに妥協的なやり場を見出し、「何か」に向けて輝きだすことなく不毛な関係へと収束する。顔のクローズ・アップが未知へと――演出のレベルで、また物語のレベルで――開かれるとはどういうことか?


2.愛は切り返されるか?

決定的な瞬間は、美術学校で訪れる。大勢の生徒がキャンバスを立てて、教室前方のモデルのデッサンをしている。モディリアーニが鉛筆を忘れたのを見てとり、自分のものを貸してやるジャンヌ(アヌーク・エーメ)は、モデルではなく彼の顔を描いている。そしてまた、モディリアーニもジャンヌのことを。一心不乱に手を動かしては顔を上げ、相手を見つめる二人の姿がバスト・ショットで切り返される。互いが互いの顔を描くこと。切り返しは相互的・創造的な関係に向け開かれる。二人の間には愛が芽生え、娘が貧乏画家と結ばれるのを喜ばないジャンヌの両親による妨害にもめげず、彼らはついに一夜を共にする。ダブルベッドに並んだ二人を捉えるショットに続き、彼らの顔がクローズ・アップで切り返される。聞いてくれ、ジャンヌ。君が僕を見つめたあのとき、人生が始まった、そう感じたんだ――抱きつくジャンヌ。この美しい、とはいえかなり平凡でもあるシーンは、互いに互いの肖像画を描く、という演出に支えられて成り立っているのだ。
真に驚くべき演出はしかし、続くシーンで現れる。ベッドで抱き合い、再び眠りに落ちる二人のショットからディゾルヴで木漏れ日の射しこむ森の光景が映し出される(それに伴い、音楽も甘やかなオルガンのそれに移り変わる)。カメラは緩やかに横移動してゆき、不意に動きを速めて向きを変えるとキャンバスを手にしたモディリアーニを後ろ姿で捉え、再び速度を落として上昇すると彼の横顔を捉える。すると微笑みながら石の上に両腕を置いて横たわるジャンヌの全身像が映し出され、真剣な面持ちでキャンバスの上に絵筆を動かすモディリアーニに切り返される。不意にモディリアーニは微笑み、続いて切り返すと今度は満面の笑みを浮かべているジャンヌ。そしてまた切り返し、微笑んでいたモディリアーニは再び口元を引き締め、熱心に絵の方に向かい始める。ディゾルヴで次のシーン。
豊かな自然風景と戸外の明るい光が導入される作中唯一の場面として、そのあからさまな叙情性において目を惹かずにはいないこのシーンで異様なのは、初めの長回しの移動撮影においてジャンヌが映っていないことだ。彼女の全身を捉えたショットで背後に映っている二本の木(右の一本が手前、左の一本が奥に生えている)との位置関係からいって、初めのショットで彼女が存在していれば、画面に入らないということはあり得ない(1)。つまりここで、モディリアーニは虚空を見ながら絵を描いている。その最中に突然、ジャンヌの姿が――切り返しで――立ち現れるのだ。
なぜそんなことが起きるのか?前提として、このシーンはモディリアーニの夢と解するべきものであることを指摘しておきたい。眠っている人物の顔を映すショットからのディゾルヴ、音楽の変化等は、シーンを夢として、あるいは夢か現実か未決定状態に置かれたものとして演出するための常套的な技法であり、近年では例えば濱口竜介『ハッピーアワー』もこれを使っている(2)。ベッケル監督作としては言うまでもなく、『肉体の冠』の美しいラスト(これもディゾルヴにより導入される)、マリーとマンダが永遠に向かってのように舞い続けるシーンを想起するべきだろう。
この説明はただし、それだけでは十全なものではない。夢のシーンにせよ、なぜ初めにジャンヌが不在で、次いで現れる必然性があるのか――この点を説明するのが、まさに顔の切り返しだ。モディリアーニの顔を捉えたショットに続いてジャンヌの全身像が現れるとき、起きているのは上に説明した夢の演出と同じ事態だ。すなわち、眠っている人間のショットに続くショットは夢として生成される。それと同じように、主体の顔のクローズ・アップに続くショットがその幻想として生成されるのだ。このシーンでのベッケルの最大の賭けは、クローズ・アップを夢見の技法へと鍛え上げることにある(3)。
しかしこのシーンは、モディリアーニとジャンヌが互いの顔を見つめ、自らの手で作品化しあう先に触れたシーンとはある意味で対極にある。夢見とは畢竟、一方的な関係でしかない。モディリアーニは愛する相手と二人ベッドに入っていながら、自らの幻想として彼女を作り上げる夢しか見ることができない――たとえ幸福の相を帯びていたとしても、それは無をモデルに存在そのものを描き出すこと、虚から実への平手打ちとして、暴力の極限とさえ言うべきものなのだ。
 このことを証するように、モディリアーニとジャンヌの幸福は束の間の内に過ぎ去る。モディリアーニは自らの望む評価を勝ち取ることはできず、周囲の支えにより得られそうになる機会も高すぎるプライドのためふいにする。モディリアーニと結ばれたジャンヌは健気にそれを耐え忍ぶばかりだ――先の議論との関係で興味深いシーンがある。モディリアーニが酔いつぶれて寝込んでいる間に、ジャンヌは二人の生計を支えるための副業として絵葉書を描くのだ。他方、ジャンヌが眠っているときモディリアーニは彼女の寝顔を絵に描き、また既に触れたように彼女を夢見る=絵に描く、すなわち夢として描く。この非対称性は美術学校での交歓に見られた愛の相互性が失われていく過程を端的に示している。献身と芸術的野心を切り返しても、愛は生まれないのだ。


3.苦しみは切り返されるか?

 しかしそのとき、苦しみは生まれ得る。より正確に言えば、苦しみとは切り返しの絶対的な不全、顔のクローズ・アップが自らに向き合い、支えてくれる対象を持たない事態のことなのだ。絶望したモディリアーニは作品終盤、冒頭と同じカフェに入り、自らの描いた絵を端金で売ろうとする。客たちの顔、顔、顔。しかし誰も、絶望しきったモディリアーニの顔を真剣に見つめ、相手にしてくれる客などいない。最後に一人、金を手渡してくれる女性が現れる――しかし彼女は絵を押し返す。彼女はやつれた貧乏画家に同情して金をめぐんでやっただけなのだ。絵はタダで受け取ってやる価値すらない。同情こそが対等な関係=切り返しを成り立ち得なくする。
 そして、モディリアーニの顔のクローズ・アップが映し出される。店内のざわめきが徐々に消えてゆき、悲壮な音楽に移り変わる。続いて映し出されるのは街路の光景だ――異様なまでに暗く、抽象化され、冒頭でモディリアーニがベアトリスと出会ったのと同じ場所とは到底見えない。これはモディリアーニの悪夢なのだろうか?再び彼の顔のクローズ・アップ。モディリアーニは歩き出す――そして驚くべきことに、続くショットでモディリアーニは霧がかる街路をよろよろと歩んでいる。店を出る描写が挿入されることはない。顔のクローズ・アップが先に愛する存在を現出させたように、ここでは悪夢が現出する。しかしその悪夢の中に、驚くべきことにモディリアーニ自身が入りこんでしまうのだ。モディリアーニの後から画商モレル(リノ・ヴァンチュラ)がつけてくる。モディリアーニの絵はいいが生きている内には売れないだろう、死んだらまとめて買う、とモディリアーニの友人の画商に告げて怒りを買ってもいた彼は、この悪夢めいた街路において単にあこぎな商人という以上に死神めいた寓意的な存在として立ち現れる。モレルは後ろからモディリアーニに声をかけ、するとしばらくしてモディリアーニはよろめき、くずおれる。続くシーンは病院で、モディリアーニはそこで息を引き取る。モレルはジャンヌの下へと急ぎ、彼の死を知らせないまま絵を買いたいと告げる。何も知らずに喜ぶ彼女をよそに、憑かれたように絵を漁るモレルを捉えて映画は結ばれる。
 こうして、ここでの顔のクローズ・アップは、悪夢と現実が交錯する場へと切り返されている。それはまた同時に、生と死が交錯する場でもある。冒頭の議論に戻りたい。モディリアーニは自らの苦しみを糧に、肖像画において「教会にはない何か」を描きだしたのか?そんなことはどうでもいい、傑作を描く画家を表象する映画が傑作とは限らないのだから。本作が画家を描いた伝記映画として特異な位置を占めるとすれば、それは本作における顔のクローズ・アップがまさに画家の目指したものを実現し得ているからだ――すなわち、生の彼岸と此岸が切り結ぶ場へと送り出される切り返し。そこに生成する絶対的な「苦しみ」。本作は画家・モディリアーニを描き出している以上にモディリアーニのタブローに近いものを描き出しているのだ。
 
最後に、本作の周辺の作品に言及しておきたい。本作はベッケルの次作、2年後の1960年に発表された(そしてベッケルの早すぎる遺作となった)『穴』と重要な点で類似している。共通するテーマを挙げれば、本作中モディリアーニの台詞として言われる「他人が周りにいると、少なくとも僕はひとりだと感じる」というものになるだろう。両作はともに、善意をもって接する周囲の人々との間に調和ある関係を築き得ない主人公を描いている。これはある意味で、両作ともに主人公は自己中心的だということでもある。このことを根拠づけるにあたり、本作はややロマン主義的な「「苦悩する芸術家」像のクリシェに寄りかかっているきらいがあり(とりわけジェラール・フィリップの演技は批判されてきた)、脱獄を目指す囚人間の葛藤という状況設定により厳しい演出を実現した『穴』の方がしばしば高く評価されている。とはいえ本作をアイロニーを欠いた天才芸術家の称揚とみることができないのは、絵を買い漁るモレルを捉えた後味の悪いラスト・ショットからも明らかだ――主人公は最終的に、望みを果たすことができないままに敗北する。ベッケルはそして、敗北した主人公の姿をカタルシスをもたらし得るような形で提示することもしない。勝利するのは金(本作)、あるいは制度(『穴』)だけだ。
また、本作と『穴』に挟まれた1959年に発表された、ジョルジュ・フランジュ監督作『壁にぶつかる頭』にも触れておきたい。この作品はアヌーク・エーメが苦悩する美青年を支える役で出演している点で本作に結びつくだけでなく、意思に反して収容された空間から脱出しようとする人物を描いている点で『穴』とも結びつく。そして何より、『モンパルナスの灯』には「壁にぶつかる頭」La Tête contre les mursという表現が登場するのだ――本稿冒頭で既に触れた、モディリアーニによるゴッホの苦悩への言及において。
 ベッケル、フランジュ(ついでにグレミヨン)。ヌーヴェル・ヴァーグの監督らに絶賛され、評価も安定している監督たち(ルノワール、オフュルス、ブレッソン)に比べ、彼らはあるいは幾つかの有名な作品においてのみ注目され、あるいはカルト的な人気を集めるにとどまっている印象を受ける。その再評価は、未だ始まったばかりだ。

(1)カメラの移動が急に速度を速めるタイミングが巧みに調整されているため、おそらく停止・巻き戻しすることなく映画を一度見た観客――1958年に公開された映画が当然想定していた観客――の多くはこのことに気づかないだろう。ベッケルはこのシーンの異様さが露骨な形で現れるのを避けている。

(2)机に伏せて眠る桜子のショットとそれに続くシーン。細馬宏通「ノイズの夢」(『ユリイカ』2018年9月号)に詳しい。

(3)同じく顔のクローズ・アップを途方もない幻視の技術として演出してみせた監督に、『ショック集団』のサミュエル・フラーがいる。『裸のキッス』冒頭の殴打とベッケルにおける平手打ちもまた比較可能だ。映画において顔が持ち得る暴力性の探究の仕方において、この二人の監督には共通する部分がある。

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