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どうしても言いたいこと。

東日本大震災、津波被害から10年。

姉は二人の子供と弟を失った。正確には弟は行方不明者の202人のうちの一人だ。

そして私も弟を亡くした遺族に当たる。

先日の報道特集(TBS)に姉が出た。以前から度々取材されていたから10年の節目で取材されるのは想像ができたことだ。そして姉は同じ主張を繰り返す。

この街で被害者が多かったという点は、人災だと思う。

そう繰り返す。

残念ながらTBSは、その主張の背景を放送してくれなかった。だから、Twitterという無常世界では、うざい、何でも役所のせいにするな、という心無い意見も多かったように思う。それはそうだ。津波は天災である。誰のせいにできるものでもない。ただし、備えることができるのに備えなかったのならば話が違う。

三陸沿岸部は津波の頻発地域だ。ちょっと調べても紀元前、後の古代から近代まで、大きな津波が来ている。1896年の明治三陸津波から、2011年の東日本大震災の津波までに115年足らずで4つの津波に襲われている。

作家、吉村昭氏の「三陸沿岸大津波」という書籍には、吉村氏が取材した明治、昭和、チリ地震の近代に起きた3つの津波が克明に描かれ、1970年に刊行されている。しかも、2004年に、まるで2011年の大津波を予言するように再販を果たしている。

だが私がその本を知ったのは、2011年3月11日から一月あまりたったあとだった。姉が、そういう本があると教えてくれた。悔しそうな声だった。


陸前高田市は、何度か津波に備える機会を逸している。

私の父は、市会議員をしていた親友の死に際に、後継者を願われ市議会議員に立候補し、当選し、70を超えるまで、3期を努めた。最後には議会副議長にまでなった。その父から聞いたことなので、おそらく嘘はないと思う。

最初は、老朽化した市庁舎の建て替えだったという。計画は2つの案に別れ、一つは駅に近い市街地への建設。第二案として、山側の、後に自動車教習所が建設された高台に作る案だった。結果は、たった1票差で市街地(被災した庁舎)に決まったそうだ。ちなみに東日本の震災時、ドライビングスクール(教習所)に津波の到達はなかった。

その後、もう一度、備えるチャンスが巡ってくる。

東北大学の先生による講習を、父が受けてきたことによって、避難所の見直しを提案したことだ。かえすがえすもこのときに見直さなかったことが悔やまれる。講習では、計算によって津波の到達点が、実際の津波の到達点と同じような場所を示していたからだ。

父は、説得できなかった自分を悔やんだという。または、共産党員だった父ではなく、自民党か、岩手で強かった自由党の議員が提唱したならば、変わっていたのだろうか?大方の議員は、「学者の言うことは大げさだ」と取り合わなかったと聞く。震災後、父に謝ったという同僚議員の話を聞いて、私は憮然としたものだ。

姉が言った「人災」という発言には、こういう経緯がある。何も知らずテレビの画面だけで、うざい、とか、行政のせいにするなとは言ってほしくない。行政の備え不足は明白だからだ。

未だに思う。

市庁舎が高台にあって、避難場所がもっと高台に変更されていたならば、どれだけの人が助かっただろうか。

それはもう、言っても仕方がないけれども、あの日より前に戻れるのであれば、避難所は高台にしなければと声を大にして、行政に聞いてもらえなくとも市民に言いたい。時間を遡ることが可能なのであれば、頭がおかしいと言われても喚いてやる。

だが。

その機会はもうないのだ。

未来の子どもたちへ、残せる安全を伝えていきたいものだ。

悔しい思いをするのは、もう嫌だから。


参考文献:吉村昭 三陸海岸大津波/文春文庫



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