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思い出した野望/物語における不幸の必然性

思い出した野望

なんで最近note書いてんの、という話です。

単純に一本書いたら結構面白かったし、褒めてくれる人がいて調子乗っちゃった、というのも大きいんですが、基本的には、自分の身の回りのことを言葉に当てはめていく方法を思い出すべく書いています。

思い出すというと、まるで言葉を巧みに操った時代があったみたいですが、そんなことはなく、ずっと拙いままです。
でも、本来私はその言葉を操る方法を知っているような気がしています。
脳みそをシャープに、視界をクリアにするよう努めれば、自ずと見えてくるような自信があります。今はどちらもぼやけているけど、秋の空気に応援されて、少し画素数が上がってきました。

私が今、何を思い、何を思っていないのか、何が好きで、何が好きでないのか、それらの輪郭に近づくための文章です。人に見てもらわないとやる気が出ない性分なので、見てもらえる可能性がある場所でやっていきます。

その一方で、書くうちに、いつか名文を生み出したいという野望があったことを思い出しました。

私には宝物みたいに大事にしている文がいくつかあります。

何度も読んで、声に出して、いつのまにかそらんじることができるようになった文、読みながら走り出したくなる文、体内にすこんとはまった文。

もはや私の一部となったそれらの文を、たまに取り出しては、口の中で、飴玉みたいに転がしています。

私は、誰かにとってのそういう文章をいつか書きたい。別に私にとってでも構わない。というか、まず私にとっての名文を作れるようになることから、頑張ってみようと思います。

こういう決意表明みたいなものを書くと、完璧主義が発動して何もできなくなる傾向があるので、自分に期待せずにいきたいね。

物語における不幸の必然性

物語における不幸の必然性について、ここ数年ぼんやりと考えています。

小説や映画には、しばしばとんでもない不幸が描かれます。
多くの物語では、とんでもない不幸の最中にある主人公に手を差し伸べるヒーローが登場し、執着と呼んで差し支えないほど頑張ってくれ、主人公も最終的にはそれを受け入れて快方に向かう兆しをみせます。(主人公がヒーローになるパターンもあります)

果たしてこの主人公は、そんなに不幸である必要があるのか?と感じることがあります。受け手の安易な感情移入を許さないために極端にしているんでしょうか。

実在する不幸をもとにしているんでしょうが、実際にはヒーローは現れてくれない可能性が高いでしょうし、ヒーローがいない世界の主人公は一体どうなってしまうのだろうと勝手に深刻な気持ちになります。
あらゆる不幸があるなかで、その不幸が物語に選ばれた訳も気になります。なぜ病か、なぜ犯罪か、なぜ親しい人の裏切りか。それらが道具として用いられているように感じられると、必然性を求めたくなってしまいます。

同様に、登場人物の死も、主人公の精神的成長の栄養剤や物語の転換として利用されてしまったように感じると、少し悲しくなります。
この人が死ぬ以外でどうにかならなかったか?と思う。

もちろん物語における不幸や死の全てがこれにあてはまるわけではないです。こういった疑問を抱かせる余地のない作品がほとんどです。

逆に必然性のある死や不幸こそ実在しないものとも思いますし、物語にだけ説明を求めるのも違うのかな。

んーー、現時点ではモヤっとするなという程度で、態度を決めきれずにいます。私は物語を書いたことがほとんどありませんから、駄作でも、何か書いてみたら少しわかるかもしれませんね。

まとまらなくて、なんだかボヤきみたいになってしまいました。

読んでくれた方へ。もしよければ、あなたはどう感じているか、いつか教えてください。

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