一人目と二人目

 先ほど「小説を書こう!」と奮起したがアイデアが出ず一瞬でやめた。まだそこまでの技量は持ち合わせていないようだ。ともあれ久しぶりゆっくり文章を書いている。こうして何かを作ることでその人となりが形成されていく。ところでこの”人となり”とはいったいなんなのだろうか。我々人類は生まれた時から大なり小なり何かしらのコミュニティーに属し、周囲から影響を受ける。生まれた時から言葉が巧みに扱える赤ん坊がいるとするならば、その子の言論や考え方は備わっていた素質となるが、そんなスーパー赤ちゃんこの世に一人もいない。”ニャンニャン”や”ワンワン”など簡単な言葉から始まり、今では”相対性理論”なんて言葉を操ったりもする。(日常で使うことないけど)「私はこういう人間です!」と自信満々にアピールしたところで、それ即ち「私はこんな人間に囲まれてます!」といっているのと同じってこと。人となりについてはこんな感じかな。だから俺が、私が優れている!って思うんじゃなくて、周りがあるおかげで自分自身が形成されていると考えると、周囲の人に対して感謝が湧いてくる。理想を追いかけるもいいし、そしてそうするんだったら周りにいる人を変えたらいい。もしくはそのままのあなたでも良いし。でも今の自分に違和感を感じるのであれば、すぐ何かしらのアクションを起こそう。おすすめは断捨離か、歩道に這いつくばって四足歩行すること。これに限る。後者に至ってはパラレルワールドに来たかのような感覚をおぼえる。非日常というのは捉え方一つでいくらでもその辺に転がっている。で、話は変わるけど最近のテーマは金と表現のはざま、ですね。自分の中に二人の人間がいて、その日によったり場面によって出てくる性格が違うことがある。一人目の特徴としては現実的で欲にまみれた自分。金が欲しい、モテたい、新しい服やものが際限なく欲しくなる感じ。二人目の特徴は1日3食取れて、読書と音楽さえあればいい、プラスでちょっと自分の表現ができたら良いな〜という感じ。それぞれに良い悪いはない。どちらも正解。ただ、自分はどちらかというと後者が出現しやすいというか、後者がデフォルトになっている。だから前者に切り替わった時の反動がとてつもない。あーおれマジで何やってるんだろうってなる。インスタのリール動画でたまに、「あなたは世界の上位数%の中の幸せ者です」みたいな内容を目にする。確かに貧しい国々からすると良い生活を送れているかもしれない。おっしゃる通りだが、いかんせん比較するのは彼らではなく、周囲の人々。それも相まって二人目から一人目に切り替わった瞬間、あーーーーってなる。じゃあわかりましたよと。お金稼いでみんなと一緒の価値観で生きましょう、ってすると、それはそれで居心地が悪い。同じような日々を送ることに霹靂してしまう。一日一日感情に変化があるのに、同じ職場で数年働き続けられている周りの人たち(一人目がデフォルトの人たち)は化け物なんじゃないかなとさえ感じる。居心地が悪いまま、お金や家族のためを想って働いている人たちは本当にかっこいいと思うし、尊敬もするけれど、自分にはその能力はないなと諦めている。能力がないからこそプライドを捨てられるし、人と共有していかなきゃいけないし、できることはあるんじゃないかなと思う。やりたいことやって生活して、周りの人も幸せにできるってルートを信じたい。二人目から一人目に切り替わった時の絶望が二人目になった時の行動に生きてくるし、逆もまた然りでいい側面もあるんだけど、この浮き沈みと一生付き合っていかなきゃいけないんだと思うと、とても面倒くさい。でも時としてとてつもない偶然や経験と遭遇することがあって、それってこの性格のおかげもあるのかな、と思う。


 

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