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焼きうどん

 鍵が閉まる音がする。時刻は午後10時を回り、僕はすでに寝床に入っていた。寝苦しい夏の夜が続いていたが、今日はいつもより湿気がなく過ごしやすい。ただ、寝る前にどうしても友人からもらったコーヒーが飲みたくなり、ミルで荒目に挽いた後、湯を沸かして飲んだ。ハンドドリップの仕方は前の職場の先輩から習っていた。初めの頃はメモを見ながら必死にドリップしていたが、今となっては鼻歌を歌いながら入れることができる。カフェインのせいかなかなか寝付けずにいたところ、ちょうど仕事終わりの妻が帰ってきた。両手に焼きうどんが入ったレジ袋を抱えている。まだ寝付けそうになかったので、少し話をしようかとムクリと起き上がって声をかけてみる。
「おかえり」
「ただいま〜、これ職場の人にもらったんやけど、食べる?」
「いや、今はいいかな」
「そだよね」

 そう返事をして、焼きうどんを電子レンジへ放り込み、冷蔵庫に冷やしておいた缶ビールを開ける。景気の良い音と共に、泡が吹き出してくる。おととと言って、溢れた泡を啜る。
 彼女の特技は、ビールをいかにも不味そうに飲むところだ。この癖は学生時代に付き合っていた頃から変わらない。

「珍しいね、この時間まで起きてるの」
「コーヒーが飲みたくなってね。ほら、この間、拓海がくれたやつ」
「あぁ、彼、珈琲屋始めたんだって?」
「珈琲屋というか、焙煎所らしい。街の珈琲屋に卸してるらしいよ」
「へぇ、私も飲みたいかも」
「いいよ、焼きうどん食べたら入れてあげる」

 焼きうどんが温まった音が聞こえた。パックからは湯気が立ち登っている。

「湯気で思い出したんだけどさぁ、今度温泉でも行こうよ。私運転するからサ」
「そうだね」

 結婚して13年の月日が経過しているが、我々夫婦は一度も旅行したことがない。遠出といえば、隣町のデパートに映画を見にいくことくらいか。彼女が旅行に行きたいと話し、僕がそうだね、と返す。これもお互いが付き合いだしてから数えると15年。全く変わらない。計画するも、僕が海外に行く用事ができてしまったり、彼女の身の回りに不幸があったりで、不思議と行手を阻まれてしまう。
 旅行へ行くことが結婚生活の全てではないにしろ、ふとした時に思う、彼女は僕と結婚して幸せだったのだろうか? 改めて聞くのは野暮だから聞かないでいるが、心の奥底に、この感情がべっとりと張り付いている。

「行こうか」
「え?」
「今から」

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