なんのために生きるのか?

 ”何のために生きるのか?”という問いに対して、あなたは明確な答えを持ち合わせているか?

ー自分のため
ー家族のため
ー恋人のため
ーお金のため

それぞれが、それぞれの正解があっていい。

ただ、それが独りよがりになりすぎてはいないだろうか?

自分さえ良ければいい。だから余分に蓄える。自分のものだ!と独占する。
独占することで、同時に不足が生じる。
それが世界各地で歪みとして現れてはいないか?

自然から享受しているものがあるのにそれに気づかず感謝を忘れ、野菜や果物を当たり前に生産される工業製品か何かだと勘違いしてしまっていないか?

結果、スーパーマーケットにはまるでコピー&ペーストされたかのような野菜が並ぶ。消費者はそれらを良しとする。玉ねぎの皮が剥かれ、それがプラスチック容器に入っているというとんでもない包装スタイルを目にした時には、吐き気がした。

我々はそれがさも当たり前、もしくは気づいているが「しょうがない」と諦めてしまっているのではないか。

人類の歴史は、選択の歴史でもある。
「マンモスを殺す用で、試しにこの前見つけた石を使ってみよう」という選択。
「寒い、毛皮を身に纏えば過ごせるけど、贅沢して火を焚こう。」という選択。
「味はおいといて、とにもかくにも安いモノを食べよう」という選択。

選択が歴史を作る。=選択がこれからの未来を作る。

現代の流れとしては、”もっと便利に””もっと早く””もっと効率よく”
良い。それも一つの答えだし楽しさもある。ただ、それが行き過ぎると取り返しがつかないことになるというのを、我々は過去の過ちから学べるのではないか?

効率化の象徴とも言える原子力発電、東日本大震災の際にその事故が福島県民に与えた影響は計り知れない。効率化の行く末を見た良い(悪い)例だった。その便利さの裏に潜む破壊力をやはり我々は再認識しなくてはならない。

ーなんのために生きるのか?
地球のためだ。

これから先も、地球に存在する生き物が、それぞれの生を真っ当しながらドラマチックに生きていってほしい。そしたら地獄もしくは天国からでもそれを眺めておけるから楽しそうだなと想像している。

めんどくさがらずに、地球に思いやりを。
食事の前にかならず”いただきます”と自然から与えられた恵みに感謝することから始めよう。


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