梅雨明け前

喫茶店に入ることはずいぶん少なくなってしまった。春から喫煙できない店がほとんどになってしまった。店に座りコーヒーをすすって吸い込む煙草の煙はどうしても美味しいのにな。新宿へ出て映画を見て夕方の用までなにをしようかとゆっくり歩いていると、ふっとにおいがした。古い佇まいに、二階は喫煙可の文字。これ昔からの名店なんだというのは誰の目にもわかる。通ったことのない道を通るといいことがあるな。

一階の人が一瞥をくれたのでそのまま階段を上がる。下の階と同じように長いカウンターになっていてその脇に豆を焙煎する機械がどんと座っていた。興奮してきたな。メニューをさらっと見る。見るけどブレンドのオリジナルで。スタンダードなやつがいいんだ。カウンターの中のおじさんは黒い受話器をとって話している。焙煎の作業をしていた若い男の人がコーヒーを入れてくれた。ネルを柔らかい手の動きで動かしている。そして目の前にコーヒーが着く。

おお、うまい。すこぶるおいしい。コーヒーに感動したのはひさしぶりだ。それは完全に顔に出てしまっていたと思う。おじさんにはそれを見られたような気がした。煙草に火をつけたいがコーヒーを待つ間にライターを忘れたことに気がついていた。火をもらうことにやや言いにくさも感じたがそれよりもコーヒーを飲む手がまた、また動く。お兄さんのほうはさっき席を立った態度の大きそうな男の席を片付けている。なんとなく間を探り、カウンターの中のおじさんに声をかける。マッチかライターはありますか。いちおう、すこし罰が悪そうに発してみる。実はライターを忘れたと気づいたときに僕は少しラッキーだと思った。このような店にはきっと店の名前の入ったマッチがあるに違いないからだ。思ったよりずっと柔らかい反応でおじさんはカウンターの際よりに箱を置いてくれた。期待どおり、細身の箱に手を伸ばす。最近、煙草の銘柄をキャスターマイルドソフトに変えた。こういうコーヒーにはハイライトがいいなと一瞬思ったけど、新鮮な気持ちで白い先端を擦り、煙草が燃えすぎないように距離をとって火をつける。くわえながら文庫本を出しても煙が嫌じゃないのもキャスターのいいところ。読み始めてすぐに2本目に火をつける。ハイライトならこの吸い方はしないので少し楽しみが増えたような感じがする。

やがて、奥のテーブルの組も帰ってゆき、二階の客は僕ひとりになる。左手側では焙煎の作業が本格化しているらしい。さっきのお兄さんがなにやら大きいものをぐるぐると回している。それをおじさんは見て、たまに代わってやって見せているようだ。一階の若い男の店員の人も時折ようすを見にきている。こうばしいにおいがしてる。手元のコーヒーはもう残り少なくてすっかり冷めてしまっている。もう一杯飲みたいぐらいだな。また小説のほうに引き込まれていると2人の客が同時に入ってきて、ようやくちゃんと落ち着くことができた。長嶋有の小説はとてもよくて残りをあっという間に読み終えてしまった。焙煎する機械は、なにやら調整がなされているらしかった。醤油皿みたいな灰皿に4本目を並べた。マッチ4本と合わせて8本だなとよくわからない納得をして胸ポケットからマスクを出した。かわりにマッチをしまうとカラカラと軽い音が鳴った。ご馳走様でした。美味しかったです。

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