オタク語りは現代のみをつくし
日々Twitterやnoteにつらつら書いているものの「オタク語りは日記にでも書いておけ」と思う自分がいます。しかしなぜTwitterやnoteに書いてしまうのか。
「文章」と「人に読んでもらうための文章」は違う
「文章」と「人に読んでもらうための文章」は違います。
どちらかというと私はただ自分がどう思っているかを書いているだけです。好きなのでたくさん考えますし気持ちを書き綴りはするんですがいかんせんレコメンド力が低い。申し訳ねえ。
そんな自分から見れば布教コンテンツを書ける人は本当にすごいです。熱量と分かりやすさのバランスを取って他人の心を動かすことまでやられているんですから。
そんな文章を書けるとも思わないのでこれからもつらつら書くだけでしょうけれど、うおーすごいなあと思って拝読しています。これは絵を描いたり物を作ったりする方に対してもそうです。
オタク語りは澪標
じゃあなおさら日記に書いておけって感じです。それでもこうして書いているのは、誰かに見てほしいわけじゃなくても思考の跡をこの世界のどこかには置いておきたいから。
誰かの役に立つものでなくても、誰に読まれるでなくても、自分はこう思ったのだと標を立てているような気持ち。オタク語りはインターネットの海にある私的な「澪標」です。
オタク語りの読み手としては、他の人の語りが澪標だと感じることもあります。語りを読んで「本当にそれな!」と共感するだけでなく「自分はそうは思わないなあ」と考えることもできます。オタク語りは私的な澪標であるだけでなく他のオタクにとっての澪標になることもあります。
同時に「身を尽くし」でもあります。
仕事でもなければお金がもらえるわけでもない。誰かに読んでほしいというよりはこの身から湧き出る気持ちを抑えきれずに書き綴ってしまう。時に寝食を犠牲にしてでも突き動かされてしまう。それがオタク語りだと思います。
そんな大層なことしてないよ〜とも思いますが、たとえばドラマ放送後に数時間Twitterに張り付いてるのは改めて考えれば十分「身を尽くし」。早く寝る方が体にはいいはずですもん。
自分だけの「みをつくし」を
今はTwitterを開いたり少し検索したりすれば、すぐにたくさんのオタク語りに出会える環境です。インターネットが盛んになる前のオタク語りってどんな感じだったんでしょうか。雑誌の投稿欄とかなのかしら。
「みをつくし」をすぐにたくさん読める環境は面白いです。同時に自分だけの「みをつくし」を持っていたいなとも思います。
周りの人がどう言っているかではなく自分の思ったことを大事にして言葉を尽くしたい。いろいろな話が飛び交う状況だと余計にそう思います。
そのほか、書きたいオタクとしての自戒は以前まとめたので繰り返しません。満足感の高いオタ活がしたいなあと思う今日この頃です。