見出し画像

2007→2020→?

本日ポーラ・オルビスホールディングスからのプレスリリースにありました通り、今年いっぱいで株式会社DECENCIAの代表取締役社長を退任、合わせて同グループを退職いたします。

また、年内で20年暮らした東京を離れ、実家のある熊本県上天草市へ戻ります。

来年からは、とりあえず数か月はのんびり過ごし、免許なんかとりつつ住居を整え、その先は、地方特有の課題やジレンマの解消、またポテンシャルにあふれた地元の資源を再編集しながら世界にPRしていくような取り組みをスタートできればと思っていますので、引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。(といいつつ、年末までディセンシア100%ですので、具体的な計画はこれからです。)

画像1

あの日の事は、まだよく覚えています。

緊急事態宣言が発出されている東京で、とにかく私は、近所をよく歩いていました。(あとはNetflixドラマに時間を溶かしていました)

多くの方がそうだったと思いますが、今年はコロナがあって、その先の事業とか社会とか、来月の事とか、半年先の事とか、「考えるネタ」には、事欠か無い日々だったと思います。

そんな超現実的な思考モードだった6月のある夜の散歩中。

月は出ていなかったけれど、心地よい風が吹いていて、なんとなくコロナをきっかけにした時代の変化は、私にとってはポジティブな事が多いのかもしれないなーなんて、大した根拠も無く考えたりしていて、一言でいえばご機嫌で、来る未来に武者震いさえしていました。

そんなご機嫌な夜の散歩中の刹那、今度は頭よりも私のフィジカルに
「あれ?天草で良くない?」という思考が、わーっと一瞬走ったんですよね。

そしたらもう次の瞬間には、全身の細胞がその思考で上書きされまして、
その後は、どんなに思考を整理しても、「東京にいる」という選択が正解にならないんです。

頭で考えれば、このまま社長やって安定したキャリアを積んだ方が安全に思えるし、今のままでも十分幸せだよねとも思えるし、すでに大変恵まれた環境とチャンスを与えてもらえているし、実際、一つも不満は無いのですから。

画像2

「なんで辞めちゃうの?なんで東京は離れちゃうの?」

という質問に答えるとしたら、本当の答えって、本当にこんな答えになっちゃうんです。ごめんなさい。戦略性も無ければ、高尚な思想も無くて、あるのは直感だけ。
でも、自分がこの先どう生きていきたいか?という問いに対しての、一つの解答であることは確かなんだと思います。

本日を迎えるまでの約半年間は、私の頭と精神が、結構大変でした(苦笑)何せ、良くも悪くも馬鹿正直な類の人間なので、来年の事業や組織の話を、私自身がコミットできない未来として考え、話をしながら、来年以降の生活のプランを考えたりすることは、どう考えても、そもそも私の器のキャパに収まらず、友人の精神科医のお世話にもなったりしました。
(星野くん、その節は本当にありがとう。。)

とはいえ、それでも夏が過ぎ、秋が過ぎ、さまざまなイベントとともに月日を過ごす中で、ディセンシアという組織の、ここ数年での飛躍的な進化と、事業そのものの成長には目を見張るものがあり、その揺るがない実績は、水面下で「去る」という決断をしていた私を、この上なく勇気づけてくれました。

また、POグループは今回の私の意向に際し、想像以上のサポートをしてくださいました。後任の山口さんへの引継ぎ期間としては、これまでにないほどの準備期間を提供いただき、すでに新体制の布陣も、来年以降の戦略のコンセンサスもしっかりと取れている状態です。

そもそも、POグループの鈴木社長をはじめボードの皆さま、また研究所の皆さまには、一貫して寛大に接していただき、事実として私は、このグループへの恩を一生忘れないと思います。

折に触れて「山下さんがやりたいようにやればいい」と背中を押してくださり、むしろ私の方がよほど保守的で、ボトムアップな戦略しか描けない状況の中で、誰よりも鼓舞してくださったのは、鈴木社長です。

また、現在オルビス株式会社の社長を務めていらっしゃる琢磨さんは、
私の師匠でもあり、今回の意思決定を最初に相談した人でもあります。

そもそも超絶多忙な琢磨さんに強引に30分ほど時間をもらって、
「社長の辞め方がわからなくて」という良くわからない相談を持ち掛けた日から、全てがリアルに動き出したといっても過言ではありません。

最初はとても驚いていたけれど、すぐに「やまちゃんらしい決断だね」と
その意思を尊重してくれたことは、とてもありがたい瞬間でした。
なんだか、全てが報われたような、重たい鎧を少し脱いで身体が軽くなるような、そんな心境でした。

グループでもう一つ、MIRC・FRCの末延役員、近藤さん、平河さんにも、大変お世話になりました。会うたびに「ディセンシアを応援してるから!」と様々にサポートをいただき、京都での細尾さんとのご縁から事業アイデアも生み出しましたし、何よりも、ここ数年で一番のヒット商品となった、敏感肌初の「しわ改善オイル状美容液」であるアヤナス リンクルO/Lコンセントレートの開発のきっかけをくださったのも末延役員でした。

画像3

お礼を言わなければならない方々は、まだまだ沢山います。

見事なまでに何者でもなかった私に、沢山の力と知恵と技術を与えてくれたビジネスパートナーの皆さんは、まぎれもなく「ディセンシア」ブランドの一番の応援団でもありました。

コスト度外視でサポートいただいた事もありましたし、夜を徹して、ぎりぎりまで調整を重ねてくださり、私自身もそのアウトプットにしびれる瞬間をたくさん経験させていただきました。

ちなみに、ディセンシアのキャリアで最もチャレンジングなプロジェクトであり、最も意欲的で、当時の私の思考の純度も最高潮に達していた特に生まれたクリエイティブワークはdecencyです。

とても抽象度の高い私の言語を解像度高く汲みとってくださるだけでなく、想像をはるか超えたクリエイティブに落とし込んでくれたこのチームの凄みと熱量は、この先また出会えるんだろうかと思うほど、本当にエキサイティングな時間でした。

画像5

ディセンシアというブランドは、本当に沢山の方々に愛されているブランドです。お客さまはもちろんのこと、社員もブランドに共感して入社してくれているメンバーばかり。ビジネスパートナーもグループの中でも、ディセンシアの目指すビジョンに可能性を感じてくださっています。

最後に、この3年間一緒に経営に取り組んでくれた取締役の河井さんも、
来年から株式会社ACROの取締役となります。
河井さんとは、植物や土器、石器の話が合うものの、強みや得意分野は180度違うし、特に最初の頃は、考え方の違いもあり喧嘩のような議論も沢山しました。後から知りましたが、社員から私へのクレームもすべて河井さんに行くような、そんな日々もあったようです(ごめん)

苦労をかけっぱなしだったここ数年の中でも、特に昨年2019年はヘビー級の挑戦と責任を自ら背負ってくれて、二人で何とか命を繋いだ感は本当にあります。

私自身、ディセンシアフルコミットで、何でもかんでも引き受ける覚悟の日々でしたが、それでもこぼれてしまう様々なこと、あとは私があえてやらない方がいいことを、自ら全て引き受けてくれて、泥臭い交渉や調整も、私が知らない間に進めていてくれました。

多分、取締役が河井さんじゃなかったら、早々に戦線離脱していたか、組織がおかしなことになっていたかもしれません。

私の退任話を、ディセンシアで最初に伝えたのも河井さんでしたが、
「予想より1年早かった」というさすがの返事と共に、まだ後任も決まっていない中で、退任までのスケジュールと新体制の組織案を作ってくれて、
具体的なPJに落とし込んでくれたおかげで、混乱なく今があります。

これからも頭が上がらない人ベスト3は河井さんですね、本当に。

画像4

社員の皆さん、もう沢山のメッセージを折に触れて伝えていますが、この先のディセンシアは可能性にあふれています。(油断は禁物だけど)


時代がやっと追いついてきた感や、少しずつ手ごたえも感じていると思います。

一人一人がちゃんと「お客さま」という言葉を今のようにしっかりと、当たり前のように使う文化を、これからも大切にしてくださいね。

今この瞬間も、ディセンシアの商品を日々のお手入れの傍らに置いてくださっている一人一人のお客様の感情や生活に想いを馳せることをやめないでいれば、大切なことはそう簡単には無くなりはしません。

当たり前のようで、難しいことを、これまで一貫して大切にしてこれた皆さんこそが、ディセンシアブランドそのものであると、今は確信しています。

これからは顧客の立場で、ディセンシアから届く新しい発見やワクワクを、心から楽しみにしています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?