一発書きチャレンジ_5 「社会でもなく、世界でもなく」
ふと思い立ち、「スマホを持たずに」出かけてみた。
「スマホだけを持って」出かける事はよくあるし、
「スマホを忘れて」出かける事も、たまにあるけれど、
「スマホを持たずに」出かける事は、随分久しぶりだった。
それが良かった、悪かったと、ここで論じたい訳では無いけれど、自分の脳みそから(「脳みそ」ってすごい表現だな)外付けハードディスクを抜いて世界を歩いているような、あくまでそんな『雰囲気』を味わった。
エモい風景があれば写真を撮る/分からなければググる/SNSを覗いてみる/時刻を確認する/お金を払う/歩いた歩数をカウントしてもらう/自分の未来の予定を友達とすり合わせる
ほんの数時間だけど↑これが一時的に出来ないことに、大きな不足を感じることは無く、むしろ自分と社会の境界線のリマインドになったような気がした。
取り巻く世界のあれこれを、勝手に「意味づけ」しながら生きている私。
「茶柱が立てばラッキー」よりも、もっともっと細い機微にまで「意味づけ」をして生きている自分にある時気づいて、その傲慢さ少しを恥じたことがある。
「意味付け」する思考の癖は、スマホなんかよりも根深く私を侵食していて、もうきっと私の人格の一部を構成しているといっても良いと思う。
それは時に、自分を救うこともあるし、エンパワーすることもあるのだけれど、どこかで社会への態度を制限してしまうこともあるし、大雑把にラベリングした二項対立の議論で、その場に立ち上がった各論の種を一蹴してしまう事もしばしばだ。
この社会における自分の現在地を、なるべく固定したくないという欲望さえも、意味づけの作り出したモンスターなのではないかとさえ、実はちょっと思っている。
無駄を愛し、意味を解き放ってみる
効率的か、非効率的か。
合理的か、非合理的か。
そのいづれも後者の方が、笑えるし楽しい。
「それ意味ある?」という全ての行動が愛しいし、忘れがたい記憶となって残っている。
社会でも世界でもなく、私という命の中にある美意識を壊さないように生きられたら、もうそれだけで本当は良いのだと思う。
フィッシュマンズのこの歌、1996年だって(驚)
言葉は抽象度が高く磨き上げられたものほど、
いつだって新鮮で、決して色褪せない。
※「一発書きチャレンジ」は、
私個人の文章を書くリハビリで、何の準備も、構想も、下書きも無く
文字通り「一発書き」で書きなぐったテキストです。
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