モノトラナイ
あんまり安くしてくれないチェーンの古本屋とか、ドラッグストアなんかの出入り口に突っ立っている万引き防止ゲート。
私はあれが誰よりきらいだ。
多分本当の万引き犯よりあいつのことがきらい。あれをくぐろうとするたびに、ピロピロとんでもない音がして、中年の警備員が二、三人飛んできて、私は羽交締めにされて、あの安っぽい制服の胸板をどんどん叩きながら泣きわめく。ような気がする。
それとも、私の知らないうちに私の利き手じゃないほうの手が、こっそりミントガムなんかを盗っちゃったんじゃないかしら。こんなに口の開いたトートバックだから、もしかしたらそういう事をするかもしれない。それくらいには、私は私を信用していなかった。
携帯電話の部品か何かに反応して、本当は私、いちどあれに引っかかったことがある。あのいでたちなのに拍子抜けするくらい軽くて、くしゃって丸めたら無かったことになりそうな音をピィピィ鳴らして。私はそこから動かずに、何ともいやな笑いを浮かべて「あ、どうも」なんて小さくもごもご言った。店員は遠くから私に謝った。多分あのゲートも店員も、いるかもしれないしいないかもしれない警備員も、私のことをそんなに見なかったし、荷物を改められることも無かった。
べつに大丈夫なのは知っている。
それでもあの二つ並んだ、文化祭のときの校門みたいなプラスチックの板の間を通るたび、背中と足の裏に汗をびっしょりかいてしまう。怒鳴られた時みたいに一瞬、身体が止まる。
たぶんあいつは、あのゲートは私の心の中に住んでいて、子供に善悪を教える時の鬼みたいに君臨しているんだろう。あんまりよこしまな気持ちになったら、万引きよりきっと悪い考えに反応して、あいつはピロピロ鳴って、警備員が飛んでくるんだろう。私の心の中で。
似たようなものは誰にでもあるんだと思う。ただ、それが私には万引き防止ゲートだった、それだけ。何も変わった事は無いだろうけど、でも私、少し変わってると思いたい気がして、普通でありたいような気持ちもあった。たぶん私のそういうところがどうしようもなく最近の若者で、飛び抜けてふつうなんだろうと思う。
「でもね、でも私、一度だって万引きしたことないんだよ、心の中でだって」
どうしてか少し駄菓子の甘味すらあるファミレスのワインをグラスに二杯。いい感じに気持ち悪くなってきた私はそういうふうに管を巻いていた。
「私だってないよ。多分、大抵の人はないよ」
京子はお姉さんみたいな顔をして、氷が二つしか入っていないお冷を私の方へ滑らせて寄越した。お水飲んで、と私が酔ってるあいだじゅう彼女は言い続ける。私は二日酔いごっこが好きなだけで、低気圧には勝てないけど安ワイン頭痛には数時間で勝てる。でもでもだってと頭痛をうったえて説教されるときのメールの文面が好きなだけ。
「あるよ、ぜったい。少なくとも万引き防止ゲートがこんなに怖い人なら絶対に万引きしたことある」
「悪いけどそんなものを怖がる知り合いはあんたしかいないかな」
「へえ、絶対私より友達多いのに」
「多分ね、私も向こうも友達だと思ってないような友達が多いの」
やっぱり駄菓子の匂いを含んだアルコールを息に混ぜて吐きながら、京子は憂鬱そうに顎を触った。
「あ、帰りにドラッグストア寄りたい」
「はあ、本当にあんたは」
万引きゲートは怖いけど、ドラッグストアが好きだ。
中途半端なメーカーごとの陳列、申し訳程度のカウンター、毎回断るポイントカード。試供品の口紅を平気で引けるようにいつか私もなるんだろうか。マニキュアのサンプルなんか置いて、手が塞がったまま買い物しろって言うのか。ベビーパウダーを買いに入った棚の間で毎回、私がお母さんに見えているのか考える。
とくに酔っ払った時ほどドラッグストアに行きたくなる。
「何買うの」
「んん、何か一つだけ、何か買うの」
「無駄遣い?」
「そ。どうせいくら化粧品があったって顔はひとつしかないもん」
「たまにはさ、沢山あっても困らないもの買ったら?」
「顔は買えないからねえ」
「カロリーメイトとか、頭痛薬とかさ、備蓄するものなら無駄にならないよ」
「いや、無駄だよそれは」
はいはい、と京子はまた水の入ったコップを手で指した。一口申し訳程度に含んでみる。
不味い。
エビアンとボルヴィックの違いはわからないけど、不味いものは不味いとわかった。多分氷が不味い。氷の溶けたのが水より不味い何かで出来ていて、それが溶け込んでいる。
まあ、氷なんかいくら美味しくしたって溶けちゃうもんなあ。
「少し落ち着いた?」
「落ち着いたからもう一杯飲んじゃう」
「おつまみ無いよ」
「いいよ、一杯だけ」
「お好きに。お水飲みなね」
「はあい」
ピンポンを押すと警備員みたいに店員がぱたぱた寄ってくる。どうせ数分で飲みきってしまう安ワイン。たったのグラス一杯の注文を店員が嫌な顔一つせず受けてくれる。ああ私、ファミレスバイトを三日くらいやってみたいけど、四日より多くは出来ないだろうな。
京子はもう、ワインを持ってきた店員が「お下げしてよろしいですか」と言うのに備えてお皿やらフォークやらをテーブルのふちに寄せている。へんに重ねたり拭いたりはしないのが彼女の細やかなところだ。実際は京子も私もファミレスで働いたことがないから何が正しいかはわからない。
「来るたび思うんだけど、伝票めくって安さにびっくりするよね」
少し酔っているようだ。柔らかい笑みを見せた京子はまた水を飲ませてくる。
青汁を飲むよりいやな気持ちで水を一気飲みした。そこで店員が九百円で働いてくれる一時間の六十分の一くらいかけて私のためのちっぽけなグラスを運んで来た。私は小さく頭を下げて、テーブルに置かれるそれを見ていたし、京子は自分がたのんだものでもないのに「どうも」なんて言った。貸し与えられるんだろうか、買わされるのだろうか、バイトを辞めたら二度と着ないであろうエプロンを直し直し、店員はすたこら厨房へ引っ込んでいった。「お下げしてよろしいですか」が無かったので京子は少し面食らって、それを見せないように横を向いた。やっぱり、少し酔ってる。
結局京子も私に付き合ってグラスを二人で五杯空けた。デカンタで頼んだ方が安かったことに、私も彼女も気付かない。 どうせ底辺価格のファミレスの一番安いアルコール。それで結構満足しちゃうんだから、それは幸せなのかもしれない。
「お会計まとめちゃって」
ぴったり小銭がある気がして財布を開けた。五円玉が四枚も含まれたけれど金額はぴったりあった。さも気付かなかった顔をして京子に手渡すと、彼女は金額を確かめもせずにそれだけ財布にしまった。
京子の嫌いなものを、考えてみたら私はそんなに知らない。トマトと梨しか知らない。もしかしたら私のことも、ドラッグストアも防犯ゲートも、付き合っているという男の子も嫌いなのかもしれない。もしそうだったら彼女の人生は大変だなあと他人事に思いつつ、私は席を立つ。
お会計をしている間、手持ち無沙汰でスマホの画面をつけたり消したり四回、五回。なんのアプリも開く気がしないまま。
会うのはそれなりに久しいのに、毎日顔を突き合わせていた頃ととくに変わりもなく、解散の時間が近づく気分を反復している。これは次も絶対会えるという自身のもので気持ちが凪いでいるのだろうか。例えば京子が来月死ぬとして、今日が最後として、私はどうするだろう。思い浮かぶのは葬儀の席で泣きじゃくる可哀想な自分の声ばかりで、やっぱりどうしようとも思わなかった。ある程度以上仲良くなった友人を、必ず何度か心の中で殺してしまうのは、誰にでもある事なんだろうか。
「レシートいる?」
「いらなーい」
聞き慣れたやや高い声が思考を中断させてくれる。人と会いたくなるのはきっとそのためなんだろう。
「じゃあ捨てちゃうね」
京子が並んで、ドラッグストアに向けて足を進める。夜の道を友達と歩くときって、どうしてこんなに胸が弾むんだろう。スマホを乱暴に鞄に投げ込む。口の広いトートバッグだから、ちょうど「投げ込む」という感じだ。自分の動作がこうして細かいところで乱暴なのが、そんなに嫌じゃない。
「爪、いい色だね」
唐突に振られた話題。私はあまり考えずにマニキュアを買ったときの話をする。本当はネットの評判を見て買ったんだけど、それを言うのが嫌だから一目惚れしたことにして。
「結構した?」
「ううん。三百円くらい」
一目惚れで物を買える人が私は羨ましい。京子の靴と、スカートと、ネックレスは一目惚れで買われた物なのを知っている。ネットのランキングで上から順に買われたマニキュアより、雑貨屋で一目惚れされたデニムスカートの方が幸せだろうなあ。少なくとも、私だったらそうだろうなあ。
「買うときは似た色ばっかりに見えるけど、塗ると結構違う色だね」
「そうそう。ビンだけ並べると全部ピンクベージュみたいで面白いよ」
「飽きないね」
「飽きないよ」
収集癖とでも言おうか、マニキュア、口紅、アイカラー、そういう化粧品の、しかも三百円くらいのやつを買い集めて並べるのが好きだ。一つ一つにたいした思い入れは無いけど。それに、マニキュアを塗るのは好き。ネイルサロンで塗ってもらうなんて考えられない。爪に色がつく事が大事なんじゃなくて、爪に色を塗っているっていう事がいいんだから。だからピンクベージュのマニキュアばかり集まるんだ。
それに、マニキュアを塗って女友達と会うと、会話に困ったとき相手がマニキュアを褒めてくれる。それで話が続くし、マニキュアの話は色んな人に何度もしているから楽でいい。
化粧とか肌の手入れの話よりも、マニキュアはいやらしさが少ない気がする。他の部位より「人間の身体の一部」という感じが薄い。切ってしまえばゴミだし、ヤスリで削ったり色を塗ったり、プラスチックが指の先にへばりついてるみたいで、自分の一部だと思う意識が弱い。ペンケースにつける缶バッジみたいな、そんな気持ちで私はマニキュアを塗る。
「京子はマニキュア塗らないの?」
「塗るの面倒だからね。ジェルネイルとかああいう、長持ちするのを一度お金出してやってもらおうか悩んでる」
「へえ」
何の相談もせず、駅から最寄りのドラッグストアに二人で向かう。酔ってなくて、昼間だったら本屋に寄る。酔ってて、夜だったらドラッグストアに寄る。
こういう不文律がある友人がいる、ということが嬉しい。でもきっと京子じゃなくてもいいんだろうな、とも思う。多分彼女もそう思っている。
酔っているとき特有の、止めどなく、しょうもない思考が私は結構好きで、そのためにお酒を飲むし、それを話せる相手が欲しいとも思っている。本当に、いつもにも増して頭の中のページめくりが早い。冴えている感じはしない。書いている小説が、手を広げすぎて空中分解することがわかっているときのあの感じがした。
「ついたよ、あんたの好きな、嫌いな?ドラッグストア」
黄色い看板が都市の夜を見せつけるようにアーケードを照らしている。店の外に積まれた特価のティッシュペーパーには欠片も興味をそそられない。
「色つきのリップクリームか、やっすい口紅が欲しい」
そう言いながらあんまり何も考えずに、店の中に踏み込んだ。白い床と雑な文字の値札。多分何かの洗剤の試供品は籠の中に誰にも知られず残っている。
「あたしは何も買わないよ」
「うん」
レジはそんなに混んでいない。もう夜だからだろうか。夕方はたいてい長蛇の列なのに。
安い化粧品の棚の列にのんびり紛れこむ。京子はそんなに興味がなさそうに、それでもちょっと楽しそうに後ろを付いてきていた。
何もかもいつもと同じ反復動作。それでも何か違うような気がする。
いつもなら何かの暗号じゃないかと冷や汗してしまう「◯番レジお願いします」とかの放送も、そんなに聞こえない。試供品コーナーの汚れた鏡に映る自分の唇は相変わらずぼやけていた。
「私、今日はこいつが怖くない気がする」
買い物を終えてからふと思い付きを口にしてみた。店に入る段階で、そもそもそんなにあいつを意識せずに済んだ気がする。
いつものへんな汗は無かった。聞こえるような気がする怒鳴り声は聞こえなかったし、飛んでくるような気がする警備員も留守にしていた。
一歩、たった一歩で私はゲートのことを気にせず店の敷地から出た。
「人類の勝利かもしれない」
ヒヨヒヨ、休日の昼間に聞こえる鳥の声のような音で、万引き防止ゲートが鳴いた。
京子の行動は迅速だった。
びくりと肩を震わせて、その場に釘付けになる。海外のエコバッグみたいなトートのぱかりと開いた口をぎゅっと巾着になるくらい握って。
ひと呼吸してから首だけでまず私を、それから賑わっているレジの方を見た。
いつよりも、丸く大きく見開かれた怯えた目。そしてふるりと肩を震わせて、何か言いたげに半開きの口。
「お客様大変申し訳ありません」
遠くから店員が謝ったけど、お客様でもない京子はきっと聞いていなかった。
下りエスカレーターから降りたときの足取りで、すたこら歩いている。私は半歩後ろから付いて行きながら、今までで一番あいつが怖くなった。
万引き防止ゲートは人を物盗りにする。私はずっと隣にいたから、京子が何もしていないのを知っている。でも今半歩前を歩く横顔は物盗りだった。あいつが鳴ると魔女裁判みたいに万引き犯にされてしまうんだ。
遅れてきたとでも言うように、いつもの汗が背中と足の裏から噴き出してきた。
ぱたり、と足を止めて京子は私の方を見た。
「何あれ、びっくりしちゃった。携帯の部品とかに反応したんだね」
いつも通りに京子は笑った。酔いはすっかり冷めてしまって、私の鞄にはテープで済ませてよろしいですと判断した哀れな安っちい口紅が転がっている。
全くもう、と今度はいつもの通りに歩く京子を見て、私は足の裏の汗を踏み付けながらいつものようにあいつの悪口を言う。
「酔ってるよ、お水飲んだら?」
自販機で買わないと手に入らない水を勧めてくる京子。
優しい彼女はきっと疑われ慣れていないんだな、と思った。
豊かに暮らすことを試みます