言語の間で揺れる

「非ネイティブにとって英語の本を正当に評価するのは難しい、だって英語で読んだという達成感がプラスされてしまうから」とどこかで読んだけど、今の私は日本語だって、その置き換えられなさ、周りの友達と共有できない切なさでまっすぐ評価できないと思う、と"Local Distance"を聴きながら考えていた。「色々あるっしょ」の一言でもう日本語が恋しくて私の胸はいっぱいである。

言葉が好きっていうとなんだか胡散臭くて、私もう祈るみたいな言葉を書くのはやめてしまったし、じゃあ今何書いてるんだ私が好きなのは何だっていうとわからない。とりあえず言語にしてみたけれど、とりこぼされてしまう意味がある気もするし、まあそれでも言語ということで書く。

毎日びっくりするくらい英語しか話さなくて、時々京都弁が話したくて死にそうになる。私の両親は京都育ちで、私は京都で生まれただけだけど、実家にいるときは京都弁なのだ。ほぼずっと埼玉で育ってるのに、標準語はいつまで経っても自分の体に馴染まなくて、人との距離ができる言語な気がする。ものすごく人見知りなんだけど、関西弁を喋れる相手にはあんまり人見知りしない。私にとって相手との距離を近づけやすい言語なのだと思う。

きっとそんなに遠くない未来、Googleあたりが、リアルタイムに翻訳する技術を開発してくれるんだろう。それは素晴らしいことだけれど、言語にはそれぞれの楽しさがあって、置き換えられないものって絶対あるはずなのだ。だって言葉って意味だけじゃないじゃん。今「ないじゃん」って書いたけど、そこにある響きというか、話しかける感じ、それを読んだときに無意識に呼び起こされる「ないじゃん」っていう言葉を使った友達との会話、読んだ文章とか。そういうこれまでのちょっとした響きの積み重ね、それでなんとなく伝わる、相手と共有できる何かってあると思いませんか。私はあると思っていつも文章を書いている。

生活の中心言語が英語になってたかだか2年である。それでもちょっとずつ、意味だけじゃない、響きの楽しさ、言葉の選びの面白さがわかってきて、ますます英語という言語が好きになった。英語だって、イギリス英語、シンガポール英語、アメリカ英語、アイルランド英語、色々あるし、響きはそれぞれ違う。さらに地域によって少しずつ(時にはものすごく)異なるんだから、ざっくりひとつにまとめられない。

同僚に話しかけるとき、"Hi”じゃなくて"Yo"って言って笑ったりとか、そういう小さなこと。それが私はすごく楽しい。

言語がただのツールだとはとても思えない。ただのツールなら、「色々あるっしょ」で浮かび上がる私のこの気持ちは何なんだ。だからリアルタイム翻訳の技術が発達したって私は変わらず新しい言語を勉強するだろうし、こうやって言語と言語の間で揺れ続けていたいなと思う。