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なぜ生きづらいのか?認識の解像度が生活満足度を高めてくれる

社会が複雑化し続ける中、認識力が今まで以上にものを言う時代だと思います。

不満足な態度で生活している人たちを観察していると、おおよそこの認識の解像度が粗い

スマホのカメラを思い浮かべてみてください。最近の機種は、とても画質がきれいですよね。

一方、ガラケーの写メールを思い出してみてください。もはや完全に死語ですね。ガラケー時代の画質を思い出せますか?何となくでもいいので思い出してほしいです。

最新のスマホで撮った画像と、ガラケーで撮った画像。画質の違いは一目瞭然ですね。

画像をズームしてみてください。スマホのほうの画像は細部までよく見えますよね。ガラケーのほうは、もう見れたもんじゃない四角い物体が並びますね。

同じ被写体を同じアングルから撮ったとして、まったく違うものになってしまう。

このとき満足度が高いのはどっちでしょう。きっと特別な事情がない限り、スマホのカメラだと思うんです。

「もし、見たくないものだったら画質が悪いほうがいいよね」みたいな意見はここでは置いておきましょう。見たくないものだったら撮らなければいいわけですから。

そんな感じで、細部までよく見えるとよく分かる。厳密には「よく分かるような気がする」なんですが、それはまた別のお話。

よく見えて、よく分かること。その安心感は計り知れません。

生きていく上での不安なんて、見えなくて分からないことがほとんどの原因です。見えて、分かることによって不安は減る。

見える分、色んな角度から今を捉えたり、方法を検討できる。生活の満足感は自然と高まります。

この「見える」を物質を見る視力に置き換えてほしくはない。ここでは、もっと深く、洞察を得るようなイメージ。観るということでしょうか。

その力を表す言葉として「認識の解像度」と私は呼んでいます。

認識の解像度が上がれば、本質的にはAさんもBさんもCさんも誰もどのやり方も間違っていないことに気付けます同時に、ある特定の条件Kの場合だったらAさんが正しいとも気づけるのです

たとえば、「お金もうけをするんだったら誰のやり方が1番か?」と問われればAさんかもしれない。

でも、「やりがいを感じたいんだったら誰のやり方が1番か?」と問われればBさんかもしれない。

「面白い、ワクワクするのは誰のやり方が1番か?」と問われればCさんかもしれない。

ある特定の条件の下においてのみ、暫定的に答えらしいものが出てくる。条件が変われば、答えも変わる。

当たり前といえば当たり前ですが、この感覚がない人は、そもそも認識の解像度が粗いので、答えはいつも1つだと思い込んでいます。

「答えはAに決まっている!」と怒り出したりします。控えめに言ってめんどくさいですね。

こうなってしまうと、話し合いではどうにもならない。文字通り話にならないので、一生懸命時間をかけて伝えるよりも、「どちらかがどちらかを分かりたくなったら話そう」というスタンスでいいのかもしれないなと思ったりします。

認識の解像度がある程度高ければ、お互いの意見が違っても、「どこからどう見るとそうなるんだろう?」と、むしろ興味が湧いて、お互いに楽しい議論ができるものです。そして、さらに認識の解像度が上がり、よく見え、よく分かるような気がします。

どっちのほうが満足度が高いかと言われれば、完全に後者でしょう。生きていれば生きているだけ解像度が上がり、不安はなくなります。

認識難民にとって、大変生きづらい複雑極まりない世の中なのかもしれません。

ここだけの話、

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