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民を救いたい系

世の中には、民を救いたい系と呼ばれる人たちがいる(いや、私が勝手にそう呼んでいるだけだが)。

エゴが炸裂した状態

社会課題の解決を心から信じて活動する人であったり、何か困っている人々を助けたい人であったり。テーマや現れ方はそれぞれだが、民を救いたい系の人たちに共通するのは、救う対象が不特定多数の誰かであることだ。

道端で倒れている人や自分の子どもなど顔の見える特定の誰かを救いたい気持ちなら、多くの人が持ち合わせているかもしれない。

しかし、民を救いたい系の人たちは、救済のテーマに合致する人ならある種誰であれ救うスタンスである。民というぐらいなので、世間というよりは社会的な視点に立っているように見える。

私はこれを「エゴが炸裂した状態」と呼ぶ。というのも、救いたいという気持ちはどれだけ立派でも、突き詰めれば救いたい本人のエゴにすぎないからだ。

おこがましさと空虚さ

少し考えてみれば、「他人様を救うなんておこがましい。神様のつもりですか?」という考えが頭に浮かぶ。出しゃばるのはどうかと踏みとどまりたくなる。

反対に、誰も助けようとしない態度、自分さえよければ良いよねという態度は空虚である。煩わしいことに巻き込まれない代わりに、誰とも深く関わることができない。

多くの人は、おこがましいと空虚の中間地点として、特定の誰かだけを救うという結論に着地しているのだろう。見方によっては中途半端。妥協とも受け取れる。

民を救う、身近な人を救う、自分を救う。

こうして3つを並べてみると、「おこがましい」と思っていた民を救いたい系が何だか急に魅力的に見えてくる。

2種類の民を救いたい系

民を救いたい系には2種類の人がいる。2つを分け隔てるのは「他者の意見を聞くことができるか」である。

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