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自己満足過剰

遅く起きた土曜。特に何もしないまま夕暮れ時を迎え、散歩に出かける。

生活するとか、暮らすとか

散歩をしているとき、生産者でも消費者でもないニュートラルな状態になれる。フィクションの上を歩いているような、システムの外側に解放されるひととき。

公園のベンチに腰かける。外灯が池の水面を照らし、風は水面を幻想的に揺らす。フィクションにも良し悪しがあるなと思う。

ふと、「生活する」とか「暮らす」とか、これらの言葉の意味をあらためて考えたくなった。

国語辞書によると、以下の通りだ。

生活:①暮らしていること。暮らしていくこと。暮らし。 ②生きて活動すること。 ③暮らしを支えているもの。生計。[出典:大辞林]

「暮らし」が連呼されている。

暮らし:①暮らすこと。生活すること。 ②生計。暮らし向き。[出典:大辞林]

「生活」と「暮らし」は同義のようだ。「暮らす」も調べてみる。

暮らす:①生活する・生計を営む ②(他の動詞の下について)〜し続ける。 ③日が暮れるまでの時間を過ごす ④ある期間を終わりまで過ごす [出典:大辞林]

ここまで見て分かるように、別に大したことは書かれていない。生活するとは、何も立派である必要はないのだ。

世の中の役に立つとか、手と手を取り合って助け合うとか、逆に誰かと争って蹴落とすとか、そういうことは生活の本文ではない。

生活とは、ただ生きている、以上。本来もっと気楽でよいはずだ。

それにも関わらず、私たちは、あれもほしい、これもほしいと煩悩にまみれて暮らしている。商売人、してやったりである。

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