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Clubhouseを学校生活ととらえてみる

1月27日、音声SNS「Clubhouse」を始めた。黎明期の自由度があるからなのか、今までで最もソーシャルネットワーク感のあるSNSだ。

高校の昼休みだった

1月28日に「Clubhouseは何かに似ていると思ったら、高校時代の昼休みだった」という感想を持った私は、それから今日に至るまで高校時代の昼休みのノリで使用してみた。

1月29日、ずっと存在は知っていたけれど話したことのない人と話せた。Twitterやinstagramではメッセージしづらかったけれど、Clubhouseでは「やあ」という感じでいきなり話せた。細切れの時間を含むと、2日間で3回ほど話した。

社会人になってからは、仲のよい友人とでさえ、2日間で3回も話すことはなくなった。下手すると、数ヶ月に1回、場合によっては年に1〜2回だったりすることもある。

2日間で3回、やっぱりClubhouseは高校時代の昼休みみたいだ。

はじめて話した彼とも、すでにお互いをイジり合えるようなマブダチ感が漂っている。

昨晩は、東京の知らない方々と「メンヘラと出会ったエピソード」を語り合った。来る人来る人、一人ひとりのメンヘラエピソードを聞いて知見を増やしたり、共通項を見出して「人はなぜメンヘラになるのか?」というようなディスカッションにまで発展する充実したコミュニケーションが繰り広げられた。

日常生活が崩壊した

Clubhouseは人々と同期する。リアルタイムでその場にいないと成立しない。膨大なコミュニケーションコストを支払うことになる。

これまでの生活に、膨大なコミュニケーションコストを上乗せするとなると当然ながら生活のバランスが崩れる。これまでの日常を一変させるようなインパクトがClubhouseにはある

Clubhouseが楽しすぎて日常が崩壊しそう」などと書いてみたが、家族から昨晩早速「うるせえ!」と怒られた。

確かに。家にいながら高校の昼休みをしているんだからうるさいよね。

ともすれば、家を出るかClubhouseを自重するかしかない。これから、夜は家を出て散歩しながらのClubhouseになりそうだ。次は家に帰るのが遅くて怒られるのだろう。そのときは本当の意味で家を出るときかもしれない。

Clubhouseの中毒性

あくまで黎明期の今にだけ言えることなのかもしれないが、Clubhouseは中毒性がすごい。

何せ、高校の昼休みみたいなのだ。

学生時代、中には「勉強は嫌いだけど、友だちと会うのが楽しいから学校は好きだった」という人も一定数いるのではないだろうか。嫌いを打ち消すほどの動機になりうるのだから、コミュニケーションの力はすごい。

逆もまた然りで、同級生と会うのがおっくうだと、いくら勉強が好きでも学校がつまらなかったりもする。コミュニケーションの力はやっぱりすごい。

それをこれまではTwitterやinstagramなど自分の外に保存したテキストや画像などのコンテンツを生成し、タイムラインに投じてきた。しかし、どこまで行っても非同期だった。

最近はライブ配信のようなものも増え、人々が同期するようにもなってきたが、まだまだ教祖と信者という一方向、せいぜいQ&Aが限界といった世界である。

Zoomを使った双方向のコミュニケーションも行うようになったが、誰もがそこに入れるわけではないし、いつでも出れるわけでもない。場に参加するための十分なコミットメントを要する。なかなか重い。

それに比べ、Clubhouseは軽やかだ。そう、軽やかなのだ。

Clubhouseの自然な使い方

Clubhouseは、まさに学校生活を行なっているイメージだ。学校内でのポジションの取り方が、そのまま自身のソーシャルネットワーキングとして反映される。

たとえば、昼休みはどこで過ごしてもよい。食堂内でランチを食べてもいいし、外のベンチに座ってもいい。教室に戻ってもよければ、部活の昼練をやったり、文化祭の準備をしてもよいわけだ。

そのとき、いつも同じメンバーで過ごしたり、気になるグループの人にちょっかいをかけてみたり、そこで新しい人間関係が始まったり始まらなかったりする。「FF外から失礼します」みたいに話しかけるのは、どう考えても不自然だ。

そして、実際の学校生活でもそうだったように、一部の例外を除けば、似たような人同士が集まる。ガリ勉はガリ勉同士、オタクはオタク同士、パリピはパリピ同士、凡人は凡人同士つるんでいたではないか。

つまり、私たちは自分の肌に合うルームを探さなければならない。「Clubhouseが面白くない」と言うとき、それは「学校が面白くない」と言っているのとほぼ同義である。それは学校にも友だちにも問題はあるだろうが、本人にも多大な問題があるという意味において似ているのである。

自分が馴染めるコミュニティを探していく態度が求められる。それは今までのSNSの距離感より近く、Zoomイベントほど拘束力のない軽やかさによって、かつてない可能性が開かれている。言い換えれば、より「自己責任」の色合いが強くなる。

雑談したい人は雑談できそうなルームに行けばよいし、授業を受けたい人にはそういうお勉強ルームもたくさん用意されている。何か特定のテーマについてディスカッションする部屋だってある。

Clubhouseの最も自然な使い方は、学校生活に見立てることだと私は思う。「どんな学校生活を送りたいか」をきちんと考えることが大切だ。そうすれば、自ずと入るべき部屋、関わるべき人は見えてくる。

「何が有益か」を考えてしまったり、人だかりができている部屋に何となく入っているだけでは、何のソーシャルなネットワークもできない。学校に馴染めずに、自主退学することになるかもしれない。

自分が居心地のよい場で過ごすとか、背伸びしてイケてるグループの人と仲良くしようとがんばってみるとか、勉強一筋とかスタンスは何でもいいと思うが、学校に入学したような感覚でルームに入っていくと自然体でいられるし、初対面の人とも話そうという気持ちが湧いてくる。

学校生活は最初が肝心

Clubhouseは、今までのSNSで最もリアルの生活に近い(特に学校生活に近い)SNSだと私は思っている。新感覚。この感覚をきちんと掴んでおきたい。

みなさん、ご存知のとおり学校生活はスタートダッシュが肝心だ。最初の1学期、最初の1年で残りの2年は93%ぐらいの過ごし方が決まると言ってよい

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