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スルメのような問い

「よい問いとは何か?」と聞かれたら、迷わず「スルメのような問い」と答えるだろう。噛めば噛むほど味が出る、そういう問いである。

先日、出会った問いがまさにスルメだった。

「夜とは?」

クラクラする。

私たちは当たり前に「夜」という言葉を使っているけれど、本当に「夜」を共有しているのか。夜とは何なのか?

何となく「暗くなったら」とか「21時以降」などと答えたくなるかもしれない。しかし、暗くなっても夜ではないことはある。たとえば、午後2時に遮光カーテンを閉めきった部屋で電気を消せば真っ暗になる(洞穴でも何でもよい)。そんなものは夜ではないだろう。おそらく暗闇というほうがしっくりくる。

「21時以降」というのは、一見正しくも見える。しかし、21時以降がなぜ夜と言えるのかを何一つ説明できていない。たとえば、21時に燦々と陽の光が輝いていたとして、果たしてそれは夜なのだろうか。

「21時に太陽が昇っているわけないでしょ」と言いたくなるかもしれないが、では21時以降の「夜」というのはどういう状態なのか説明してみてほしい。

結局、「太陽が沈んで、暗くなって」みたいな説明になるか、精神現象としての夜を各自文学的に表現するといった話になるだろう。

私たちが「体験する」夜というのは、きっと外が暗いことでもなければ、特定の時間のことでもないのだと思う。

ここで「朝とは?」を考えてみる。先ほどと同じように「明るくなったら」とか「午前5時以降」というようなざっくりした説明ではなく、もっと鮮明に浮かんでくるビジュアルはないだろうか。

「日の出」だ。日の出は朝を告げる。無理矢理ユーモアをひねり出してもよいが、基本的に日の出が朝のはじまりのほうに位置することを否定する人は少ないだろう

朝と日の出はきれいにリンクする。

再び、夜

朝を考えると、夜もまた本来は「日の入り」とリンクしているのだろう。

たとえば、山奥生活をしている人にとっては、日が沈めばそのまま夜を迎えるだろう。せいぜい日の入り後の数十分間の空がうす明るい状態(薄明)を「夕方」と呼ぶに過ぎない。日の入り後、数十分後に暗闇と月と星で満ちた夜が訪れるのだ。

本来は、日の出から朝、日の入りからは夜という、とてもシンプルなことなのだろう。

ところが、現代社会(特に都市部)は違う。私は、福岡市中央区天神に住んでいる。街は電気で光り散らかしている。毎日、いつ日が沈んだのかも自覚しない。夜だって明るい。暗さなんて、もはや「通りによる」にとしか言えない。昼と夕方と夜の境目がぼやーっとしている

気づいたら、夜。夜とは何かも説明不能のまま何となく夜を迎えているのだ。

子どもの頃、田舎に暮らしていた。朝、昼、夕、夜、その移ろいを五感できちんと感じていたなと懐かしくなった。

思索の旅に出る

ああでもない、こうでもないと考えるうちに、文明社会がいかに自然を見えなくしているかを自覚した。子どもの頃の原風景を思い出したりもした。

夜が何かを知ることなどできそうにないが、考えることそのものが楽しい。

多分、また別の機会に「夜とは?」を考えれば、また異なる景色が見えそうだ。精神現象としての夜をまったくスルーしたので、あらためてじっくり考えてみたいとも思う。

何度も何度も考えたくなる問い、考える度に味が出る問い、それはスルメのような問いである。「夜とは?」は、共通了解を探っていくような対話には向かないが、個人の中に潜るにあたってはスルメそのものだ。

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