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感謝に包まれて生きる感覚

若い頃、学校や家庭などさまざまな場面で、感謝について教えられた。主に「礼」の部分に特化して、感謝の意を「ありがとう」という言葉で表すとか謙虚な態度を持つといった表面的な振る舞いについて教え込まれたように思う。突き詰めると、相手からどのように見られるかの話である。

大人になっても礼

大人になったらなったで、感謝について言及される機会があった。いかように振る舞うか。やはり、そこでも「礼」の話であった。どんな社会に属するかで、感謝の表し方は異なる。国や地域ごとの、産官学ごとの、業界ごとの、世代ごとの、と言い出せばキリがない。

この村では、感謝の意を表すときに、これこれをやらないといけない。これこれをやってはいけない。正直めんどくさいが、めんどくさい以上に、生存するためには相手にどう思われるかは重要なことである。無駄に波風を立てたくないなら適応するほかない。

それらが重要であることは認めるが、それはどこまで行っても表層の話でしかない。

感謝の感度

感謝の意を表すことへは敏感な世の中にも関わらず、感謝の感度がスーパー鈍感なことに私は違和感を覚える。

感謝の感じ方については、論理的に言及されることはなかった。何に感謝を覚えるのか。そのようなことを考える機会はなかった。

いや、道徳の授業なんかは微妙にそれだったのかもしれない。物語や実例を用いて、「Aさんはひどい。Bさんがかわいそう。ですよね」という極めて一面的な見方を教えられてきた。やっぱり考えてはいない。

よくある話「親に感謝しなさい」というのがある。私は、それに違和感がある。具体的には、この短文に3つの違和感がある。「親に」と「感謝」と「しなさい」である。

「感謝」

「親に感謝しなさい」というときの「感謝」とは何なのだろうか。分かりやすいのは、産んでくれた、養育面、教育面、精神面で支えてくれたといったところだろうか。「今の自分があるのは、親のおかげだろう」ということなのかもしれない。

しかし、そんなものは親のおごりである。

「親に感謝しなさい」と言うとき、先天的な文脈と後天的な文脈があるだろうう。たとえば、「お父さんの精子とお母さんの卵子のおかげであなたの生命があるのだ」という先天的な指摘をされれば、否定のしようがない。他にも、「お母さんの遺伝で、お目目がパッチリ二重なのだ」というのもそうだろう。そうした会話はもうどうしようもない。おとなしく「ありがとうございます」と45〜90度の最敬礼をすればよい。

しかし、多くの場合は後天的な話のほう、生まれて以降の社会的な文脈で「親に感謝しなさい」という言葉が使われることが多いと思う。

「親に」

確かに、親の管理下にあれば、その影響は免れないだろう。とはいえ、監禁して情報統制でもしていない限り、親だけの影響ではないこともまた事実だ。

兄弟、親戚、友人、先生、地域の人など、さまざまな人が関わっている。また、コミュニケーションツールが複雑化すればするほど、関わってくる人が膨大である。instagramでつながっている、まだ一度も会ったことのないフランス人のおかげで今の自分があるかもしれない。高校時代に聴いたイギリス人の音楽に感化された自分がいるかもしれない。

「親に感謝なんかするな」と言っているのではない。「親に」と限定するには無理があると言いたいのだ。

もっというなれば、人間が生み出してきたありとあらゆるもののおかげで今の私が成り立っている。

家族というのが明確に定義できるのも、日本という国があり、戸籍があるからである。そんな制度を誰かがつくり、誰かが管理してくれているから法的に「親子」としていられるのである。

また、それまで子どもを育てるために与えた食べ物をつくった人。移動に使った車。それを企画したり、デザインしたり、作ったり、売ったり、運んでくれた人。ガソリン、道路、本、病院、薬、天気予報、傘、鍋、味噌、靴、ランドセル、鉛筆、など、人が関わりまくっている。

そして、それらを認識できるのは言葉があるからである。言葉をつくった人たち、言葉をつないだ人たち、言葉を使って社会かたちづくった人たち、言葉を私に教えてくれた人たち、言葉を使う機会をくれた人たち。言葉のおかげで、それとこれは違うとか、それでひとまとまりという共通認識が得られている。

いずれにせよ、「親に感謝」というのは、あまりにも視野が狭すぎるのではないか。

「しなさい」

さらに、「親に感謝」を「しなさい」とまで言っている。完全におごっている。

ここまで、見てきてわかる通り、感謝を感じる感度が育っていれば、「親に感謝しなさい」と言われれば以下のような感想が自然に湧いてくる。

「え、なぜ?」

親「にも」当然感謝している。でも、サランラップにも、上水道にも下水道にも、ガスにも電気にも、スマホにもタブレットにも感謝している。

さまざまなことに感謝しているからこそ、「親に感謝しなさい」と本質からずれまくったような命令をされると、感謝したくなくなってしまうのではないだろうか。

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