二元論に気をつけるべきは誰か
善か悪か、二元論で語っているものは、相当に単純化されているという大前提を理解した上で情報を受け取らなければなりません。
便宜上、私もよく二元論で表現することがあります。あくまで「分かりやすさ」のために単純化しているだけなんですね。
あらゆるものごとはグラデーション。本当はグラデーションなのです。
ただ、「グラデーションだよね」で終わってしまうと何ともモヤモヤした感じになってしまいます。
自ら文章や音声でわざわざ発信している人間が「人それぞれ、いろいろあるよね」を連発するようでは、発信しないほうがマシだとさえ思うんです。
自分の主張を分かりやすく伝えるために単純化を図ることが(よく)あります。よほど中立性が売りのメディアでない限り、「恣意性」×「単純化」のバイアスが強くかかります。
恣意性がなければ個性や刺激が感じられないし、単純化されていないと意味が分かりづらい。どうしても「つまらない」ものになりがちです。「人を選び過ぎる」というほうがより近いでしょうか。
「中立は善で偏りは悪」という話ではありません。フェイクニュースや誹謗中傷はさすがにまずいですが、恣意性そのものに良いも悪いもありません。結局は受け手にとって好きか嫌いか、有用か無用かというところに落ち着いてしまいます。
はい、また二元論が出てきました(あえて単純化)。より本質的なのは、好きと嫌いと有用と無用の一人ひとりにとっての目的や状況や気分がごちゃ混ぜになった成れの果てのグラデーションなんですが、こう書くとやはり分かりづらいですよね。
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