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構造で理解しがち

私は物事を構造的にとらえようとします。構造を把握した上で、その場の構図を認識します。いざ、コミュニケーションが始まると言葉と雰囲気のチューニングを開始し、チューニングが合ってきたあたりからようやく話の中身に集中するのです。

会話の準備

(特に複数人の)誰かと会うとき、社会構造上のヒエラルキー、歴史、文化、個人個人の歴史、状況、価値観、互いの関係性、文脈…など、かけ算しながら場の構造を把握しようとします。

構造が把握できたら、次にその場の構図が重要です。分かりやすいのは、空間や家具や席の配置といった物理的な構図。小難しいことをいえば、精神的な構図もあるかと思います。そのようなことをできうる限り推測しながら、認識しようと努めます。

「私」が思いたい構造や構図ではありません。あくまで「場」がどうなのか、客観視しようとしているのです。

その上で、ようやく会話に意識が向き始めます。つまり、会話のスタート時は上の空であることがほとんど。構造と構図の理解で頭がいっぱいです。

会話に意識を向けたかと思うと、今度は言語のチューニングを行います。割と多くの人が「同じ日本語を話している」と思い込んでいるから厄介です。

というのも、言葉の質感をチューニングしないと、言語コミュニケーションは大して何も共有できないまま終わってしまいます。どういう言葉を、どういう雰囲気で伝え合うのがもっとも有意義なのか。そんなことを考えながら、できうる限り言葉と雰囲気のチューニングをします。

チューニングが終わったら、ようやく会話の中身に集中できます。今度は「話している内容」を構造的に理解したり、構図を認識しようとします。何なら、会話を構造的に整理することもあります。またもや構造と構図です。

そうして、私の会話は終了します。

話した後も、その内容が相手との関係性の中にどう組み込まれていくのか、また自分の中にどう組み込まれていくのか、など構造的に整理しようとします。

また、です。

だから、疲れる

私の他者とのコミュニケーションは、大体がこんな感じなんですね。だから、当然ながら人と会うのは疲れます。それに、よほど相手のことを信頼できると思えないかぎりは、目的なく人と関わることがしんどいです。構造や構図を理解するのが余計に大変だから。

「君はどうしてそんなしちめんどくさいことをやるのか?」と訊かれても、「それ以外の理解の仕方が分からなくて」というのが本音なんですね。

だから、気持ちと印象だけで盛り上がる類の雑談なんかはとても苦手です。構造がまったくつかめない。猫が戯れあっているようにしか見えません。バカにしているというよりは、本当に話の意図が理解できないのです。

「意図なんかないよ」と言われたら、「意図なんかないのにどうしてあんなにペラペラしゃべれるんだろう」と困惑します。

せめて、目的だけでも

こうした認識の仕方は、共感性に欠ける私の感情の障害に起因するところも大きいのではないかと最近は理解しています。


言葉でのコミュニケーションが、昔からずっとうまくいかない感じがしています。本気で話そうものなら、めんどくさいとか難しいと思われることが多い。原因は、相手は印象や空気に意識が向いているにも関わらず、私は構造や構図に意識を向けてしまい、お互いのビジョンがズレすぎるからではないかと思っています。

印象や空気の存在を否定するわけではなく、「会話にそれを持ち込む必要はないのではないか」というのが私の意見です。いや、猫が戯れあうのなら印象や空気が大切なのかもしれませんが。

この辺りは、コミュニケーションの目的によるところが大きいので何とも言えません。

そういえば、この「目的」というのもまた厄介です。目的は構造や構図に多大な影響を与えます。せめて目的ぐらいは共有してコミュニケーションしたいというのが私の望むところです。

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