誰かにとっての価値をあなたにとっての価値として押し付けられないために
いきなり味わってもらえるわけではありません。
ここに存在することに気づいてもらわなくてはなりません。手にとってもらわなければなりません。
そうして、何かを伝えたい人は「見せ方が大切なのだ」と気づきます。
お知らせするだけの価値
入れ物をきれいにデザインし、イケてる感じに撮影し、分かりやすいキャッチコピーと共に見せる。
ところが、見せ方に注力するあまり、中身のことをすっかり忘れてしまっている。
「そういえば、(こんなに盛ってまで)世の中にお知らせする価値あるモノなんだっけ?」
そんなものが現代にはあふれ返っているなと感じます。いや、決して今に始まったことではなく、インターネットのおかげで目につきやすくなっただけなのかもしれません。
キラキラと現実
先日、Twitterのタイムライン上に個人的に興味のあるテーマのビジネス系イベントの広告が流れてきました。リンクをクリックしてみると、先進的なWebサイト。キラキラして、なかなか凝ったデザインです。
ゲストにも興味があったので、参加の申し込みをしました。その後のメールのアナウンスも分かりやすい。
いざ、当日。
待ってました、ゲストとのトークセッション!
…10分で終了。
当然ながら、短時間で中身も薄い(タイムテーブルには1時間と書いてあるが、このゲストは10分で退室)。広告ではあれだけキラキラ見せておいてゲストを強調しておいて、10分とは。
キラキラした宣伝と薄っぺらい現実の落差に、ガッカリしました。
本来の目的からすれば、私にとってはこのイベントは無価値でした(この文章を書く動機になったという意味では価値がありますが)。
デフォルト盛り
価値について考えるとき、2つの事情から難しさを感じます。
1つは、現代は盛り盛りの世界であるということです。
たとえば、instagramの投稿を適当に100個引っ張ってきて、何人かで「ナチュラル」「盛っている」「嘘」を評価するとします。いくつの投稿が「ナチュラル」という評価を得られるでしょうか。ほとんどが「盛っている」「嘘」という結果になるのではないかと想像がつきます。
つまり、盛ってなんぼ、盛るのがデフォルトの世界であるということです。
「盛る」と「嘘」の境界線
2つ目に、「盛る」と「嘘」の境界線が曖昧なこともまた、話のややこしさを加速させます。
たとえば、化粧をする。これを「ナチュラル」「盛っている」「嘘」で評価するとします。変化し過ぎて「これはもう嘘でしょ」という評価をされた人がいるとしましょう。でも、別の人に見せると「確かに相当きれいになっているけど、嘘というほどではない感じですかね」という評価になる。
広告に対しても同じです。ある広告を見て「こんなの嘘。情弱を煽っているだけの詐欺師だ!」と思う人もいれば「人生変わるかも。これはチャンスだ!」ととらえる人もいます。
つまり、どこまで行っても「評価は人による」としか言えないのです。
先にあげたビジネスイベントなんかもそうです。宣伝で印象をブチ上げて、本番の機材やセットも素晴らしく、ところが、肝心のイベントの中身が著しく貧しい。私からすれば、嘘スレスレの盛り過ぎ案件なわけですが、そのように評価せず「期待通りだった」と大満足の人もいるのではないかと思います。
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