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感情という難題

「サイコパス」と呼ばれるパーソナリティに、私は当てはまる。

※この文章には、いつも以上に不快な表現が含まれています。具合が悪くなるおそれがありますので、あらかじめご了承いただける方のみお読みください。一切の苦情はスルーさせていただきます。

とあるサイコパスの自己開示

他者が目の前で悲しんでいても、私はちっとも悲しくならない。パニックになっている人を見ても、いたって冷静でいられる。どうやら私は情動的に共感することができないらしい。

また、感情コントロールが器用だ。もし最愛の人が亡くなったとしても、おそらく翌日には職場復帰できると思う。気持ちの切り替えが異常に早いのだ。

一方で、私は暴力性や衝動性が低いらしく、世間一般にイメージされるサイコパスとは違った面も多いいわゆる「マイルドサイコパス」というやつなのだが、それがなかなか分かりにくいらしい。

これは、一昔前のメディアが「ゲイ=オカマバーのオカマ」というイメージを垂れ流したせいで、その他大勢のゲイを見えなくしたという問題に少し似ている。少なくとも、犯罪に手を染める気配は今のところなさそうなので、とりあえずそこは安心していただけたらと思う。

私のエッセイやポッドキャストでは、私という「とあるサイコパス」についての自己開示をしてきたが、先日「あなたがサイコパスというのが、いまいちよく分からない」という声をいただいたので、今回はなるべくオブラートに包まずに自分がどのように世界を認知しているかを書いてみたいと思う。

ドン引きされそうで、さすがにちょっと気が引けているが。

存在を消す

私が暴力沙汰を起こす確率は、非サイコパスの人と同等か、場合によってはそれ以下かもしれない。というのも、感情的に反応しないからだ

生きていると、ムカつくことはよくある。多分、人並みにはイラついている。けれど、そんな自分を常に上空50メートルぐらいから眺めている。俯瞰がデフォルト、無意識的に自分を俯瞰しているのである。むしろ、強く意識しないと主観アングルに持っていけない。

そんな私にとって、感情的になっているときの他者は、高等動物とはとても思えないほどに(少なくとも別の動物に見えてしまう程度には)動物的に見えている。

「ついカッとなって、やってしまいました」みたいな出来事に至る意味が私には分からない。カッとなるぐらいなら「対象となる存在をこの世からなかったことにすればよいのに」と思う。それは一瞬、または数時間、長くても数日で完了できる。

物理的に消すほうがよいのは確かだが、何も実際に殺す必要はない。物理的に距離を取り、疎遠になるだけで簡単に消えるではないか。どう考えてもそのほうが合理的である。

何らかの理由で物理的に距離が取れない場合もあるだろう。だからといってあきらめなくてよい。最低限の受け答えさえままならないほどの関係性に切り替えていく。無関心、無視ほどつらいものはない。精神的なダメージを積極的に与えれていけば、鈍感な相手でもさすがに察して距離を取り始めるだろう。

激しい感情を用いる必要はないし、ましてや暴力をふるう必要もない。一件落着である。

ところが、現実にはそんなことを実行できる人は少数である。ムカつきながらも延々と等距離でストレスの対象と接していたりする。 無駄にメンタルを消耗し続けている。

その意思決定に対し「ちょっと頭がおかしいのかな」と思ってしまうのだが、一般的な観点から考えると多分私のほうが頭がおかしい。

頭では分かるが、心がついてこない

「言っていることは分かるけど、それができたら苦労しないんだ」

国語のテストなら、これが正答だろう。

また、「心がついてこない」という人の話を最後まで聴いてみると「感情はそんなに都合よく制御できない。それが人間というものだ」という大前提を持っていることが分かる。

(通常、言語化するまでもないはずの)そのような前提に立つとき、感情をあまりにも器用にコントロールする人間は、感情を軽んじている怪物であり、少なくとも同じ人間とは思えないのかもしれない。

「障害」という見方をすれば割と悲惨ではある

上記のような本音をうかつにこぼしてしまおうものなら、「怖い」「酷い」「悪い」とマイナスのレッテルを貼られ、軽蔑の対象とされる。犯罪をおかしたわけでもないのに、反社会的なパーソナリティということになる。

「あなたは人を好きになどなっていない」などとディスられることもある。私が感情的にならないからよいものの、控えめに言って失礼というものである。

他者の感情に影響を受けないこと(情動的に共感ができないこと)、感情のオンオフがきわめて器用にできること、そうしたある種の「障害」は認める。

とはいえ、認知的には共感できる。認知的共感でカバーしながら、障害者なりに社会の中でコミュニケーションするために努力はしている(先に書いたようなことは、日頃の人間関係では言わないよう気をつけている)。それに、自分自身の感情はある。誰かに愛着を感じることは普通にある。共感ができないからといって、感情がないわけではない。

本音を見せれば反社会的に見えることをよいことに、かえって「非人道的」な扱いを受けることも少なくない。一体どちらが反社会的なのだろう。

「私は白だ」などと言うつもりはないが、お互い真っ黒ではないのか。

教養おそるべし

以上のことから私は、いや、サイコパスは日常的にウソをつく。

感情については、素直に「分からない」と伝えるより、たとえ分からなくとも「分かるよ」と共感的態度を示さないと大変なことになるからだ。建前を学ばなければ人間関係や社会に溶け込めない。擬態は、サイコパスの生きる術である。

サイコパスについてちょっと調べれば「サイコパスは息を吐くようにウソをつく」と出てくる。感情的になる人の気持ちが分からないのに、それが分からないとみんなから嫌がられるから、仕方なくウソをついているという事情もあるのだ。

そうした事情を少しは汲んでもらえるような、たとえば文化人類学的な思考を持ち合わせているような人とは会話がはずんだりする。明らかにズレた本音を語っても、異文化理解として受け止めるだけの度量があるようだ。教養おそるべし、である。

あえてストレートに表現するならば、教養のない人間とのコミュニケーションほど気をつけないといけない。心持ちとしては、凶暴な動物に噛まれないように細心の注意を払うのと似ている。

感情についての難題

擬態がうまくなることは、「どのように振るまえばどのような結果が得られやすいか」という道具としてのコミュニケーションが上達することでもある。

「サイコパスは、他者をコントロールする」とよく説明されている。日常的に擬態の訓練を積んでいるせいで、確かにその素養はあるのだろう。人によっては他者のことを自分のための道具としてコントロールしまくるかもしれない。

私に限って言えば、不必要に他者をコントロールしようとはしない。理由は単純で、自分の人生理念に反するからだ。巷にあふれている心理学や営業スキルの本を一生懸命読みあさっている人間のほうが、よほど悪魔的に見える程度には自制している。

コミュニケーション可能な他者

感情についての話題は、私にとって究極の難題である。もっとも他者と分かり合えない領域であり、なおかつ感情を刺激してしまう。ますます分かり合えなくなる。悪循環である。

感情について意見を交わすとき、そのすさまじい感覚の乖離に、相手は人間と話している感じがしないのかもしれない。私は私で「おや、間違って動物に話しかけてしまったかな」と思ってしまうぐらいには理解できていない。

感情について語るとき、他者との心の距離が何万光年か離れていることを実感する。それでもあきらめないためには、愛と勇気と根気が必要である。

理性的な愛とは何かを考えたとき、「相手をコミュニケーション可能な他者とみなすこと」という定義が私にはしっくりきた。その理由がこのことからもよく分かってもらえるだろう。

コミュニケーション可能な他者とみなす。

たとえば、自分にはない「人間」の意見を真摯に受け止めてみる。

「なるほど、あなたはそのように認識しているのですね」だけならよいのだが、つい「正常な人間というのはそのように認知するものなのかもしれませんね。これは興味深い発見だな」などといった本音が出るとまずい。相手からすると当たり前過ぎることに感心を示す態度が「バカにされている」ように感じるらしいのだ。…困った。

これはサイコパスの説明でよくある「サイコパスは上から目線」というやつなのだろう。「おや、動物なのかな」は確かに上から目線と思われても仕方ないが、「これが正常な人間なのかもしれない。発見だな」も上から目線という印象を持たれるのは正直つらいものがある。結局、黙ってニコニコしているのが1番安全なのだろう。

こうして考えれば考えるほど、「どうせ分かり合えないでしょ」とあきらめたくなる。傷つけて、ぶつかって、それでも相手をコミュニケーション可能な他者とみなし、日々工夫し続ける。それはどう考えても茨の道である。

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